Fumio Sasaki's Blog, page 18

February 17, 2018

和束町、デュニヤマヒル、コミュニティビルド 佐々木典士

昨日は、和束町(わづかちょう)というところに初めて行った。


800年続くという、京都のお茶の産地。


宇治茶の40%は和束産なのだとか。



 


和歌山に「デュニヤマヒル」というセルフビルドのとんでもなく素敵な場所があるのだが、そこを建てられたAkiraさんがアースバッグハウスについていろいろお話してくれるというイベント。以前も長野で行われた「軽トラキャンパーフェス」でAkiraさんが1ヶ月で作られたというキャンパーを見て度肝を抜かれたのだった。


 


[image error]なんと二重構造になっていて、居住スペースを引き出して広げられる作りになっている。

 


[image error]


和束町は茶畑と、昔懐かしい家並みがほっとできるような場所。夜は星もとてもきれいだった。


 


 


アースバッグハウスはものすごく簡単に言うと、土を詰めた土嚢袋を積み上げたものに壁を塗り込んだ家。ホビットの家のようで、形が柔らかく優しい。


 


 


会場はゆうあんビレッジ。築150年の茅葺き建築を復元したという素敵な場所。


[image error]


[image error]


 


こちらの山下丈太さんは和束町を盛り上げるために、いろんな活動をされている。


アースバッグハウスやストローベイルハウスについては、以前から興味があって、千葉県の匝瑳市で作られたものや、長野県安曇野市のシャンティクティで作られたものを見学していたりした。


 


お話はいろいろおもしろかったが、印象に残っているのはとにかくAkiraさんがアースバッグハウス作りを「楽しい」「楽しい」と言っていたところ。土が入った袋を積み上げていく作業は重くて大変なはずだが、苦労を聞いてみても「楽しい」というお返事が返ってきた。


 


 


デュニヤマヒルの建物はワークショップの形式などで100人以上が参加したらしい。


 


 


ぼくも今まで、床貼り、リノベ、小屋作り、軽トラキャンパーなどいろんなワークショップに参加してきたがいつも驚くのは本当にたくさんの参加者が熱心に参加されていること。


 


 


たくさんの人がときにはお金を払ってまでワークショップに来て作業をする。もちろん技術を学べるというのはあるけれど、それだけのために遠いところへ行ったり、大変な作業をわざわざ行うというのはなかなか説明がつかない。が、ぼくの経験でもそうだし、Akiraさんがおっしゃっていたこともそうなのだが、人と何か一緒に作業をすることは他にはない喜びがある。


 


 


鶴見済さんの「0円で生きる」には、かつて日本の伝統的な村で行われていた助け合いの形がこんな風に説明されている。


 


・結(ユイ)は田植えや屋根の葺き替えなど、人がたくさんいなければ大変な作業を、いくつかの家が労働力を出し合って行うこと。他人の家を手伝うことで、自分の家の番も手伝ってもらえば作業を効率的に行うことができる。


・催合(モヤイ)は道路や共有林、井戸など公益性のある場所の作業を力を出し合ってすること。(この作業をするための場所が「寄り合い」)


・手伝い(テツダイ)は返礼を期待せずに行われるもので、冠婚葬祭がその代表。


 


以前、YADOKARI小屋部の唐品さんから「コミュニティビルド」という言葉を聞いたことがある。


すでにあるコミュニティで大変な作業をシェアし、何かを作るという意味合いもあるが(前述の結のようなイメージ)何より楽しいのは作業を通して新たなコミュニティを作ることができるということ。


 


 


ぼくが参加したワークショップでも、印象に残っているのは学んだ技術以外のものだったりする。それはこんな機会がなければ、接点がなかったような人から聞く知らなかった知識であったり、休憩中や打ち上げでの何気ない会話だったりする。完成するものはもはや大きな問題ではなく、もはや二の次。Akiraさんがおっしゃっていたのも同じようなことだと思う。


 


 


そしてワークショップで知り合った人が新たなワークショップを開いたり、何かを作ったりするときは駆けつけたりする。


 


 


「結」は屋根を葺き替える必要がなくなったり、プロに任せたりするようになり、田んぼも機械を使って家庭でこなせるものになって廃れていってしまったそうだ。


 


ワークショップの参加者はいつも楽しそう。文化祭は、大人にだって必要なものなのだといつも思う。今はインターネットを通じて、なんだか「結」が舞い戻ってきているような感じなのだ。

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on February 17, 2018 15:08

February 16, 2018

花のある生活佐々木典士

花をもらった。


 


講演のあとに花束をもらったりすることはあったけど、花瓶もないので誰かにお譲りすることが多かった。


 


今回この小ぶりな花束をもらったときは、おじさんに花束ということで身の処し方にとまどったのだが、適当にコップに活けてみると、すぐにその魅力を知ることができた。


 



 


まず自分は、よく花の写真は撮っているのでそもそもそれが好きだったようだ。


 


そして写真が好きだということは、もともと存在するものの配置を切り取ったり、構成することが好きだということで、生花にも同じような魅力があると思った。


 


 


しばし、飾りがない部屋のアクセントになってくれて、ちらちら見てしまう。


[image error]


花の配置を変えて、表情の違いを楽しむこともできる。


[image error]


しかし、この花をいちばん魅力的にしているのはいつか枯れてしまうということだと思う。随分前に「桜に教わるミニマリズム」という記事も書いたが、こんなに桜が愛されているのは、もっと見たいというところで散ってしまうことにあると思っている。だからこそ、毎年待ち望まれる存在になる。


 


ジョブズは「死は生命の最高の発明」と言った。古いものがいなくなることで、新しいものへの道を作るから。そしてそれこそが進化を推し進めてきたから。


 


 


若い頃は、女性に花をあげたくてもそれがいつしか枯れてなくなってしまう、ということに儚さを感じ、何かずっと残るものをあげたいと思っていた。しかしずっとそばにあるものの魅力は、だんだんわかりにくくなる。


 


 


しばしの間、傍らに留まり楽しませてくれる。


ずっと残らなくてもしばしの間、感情が彩られる。


「ずっと」から「しばし」に価値を感じるようになった。


 


 


そういえば、ミニマリズムの取材を受けていたとき、ある女性が「図書館で借りた本は返すことが決まっているからこそ、真剣に読むようになる」と言っていた。確かに、手元にあっていつでも参照できると思うより、そちらのほうが丁寧に読めるかもしれない。花も同じで、枯れるからこそよく見つめるのかもしれない。


 



 


女性は花をもらうと嬉しい。と頭では理解していたので贈ることはあった。


その魅力がわかったので、これからは心の底から贈りたいと思えそうだ。


おじさんにだって、花を贈れば喜んでもらえるかもしれない。

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on February 16, 2018 14:07

February 15, 2018

水筒のある生活 佐々木典士

ゴミを減らしたくなり、できる限りペットボトルや缶を買いたくなくなったので、水筒を持ち歩くようになりました。


 



 


無地のナルゲン(外国ではナルジーンと呼ばれているそう)は以前から持ち歩いていたのですがこの冬は保温タイプのものを持ち歩くようになりました。


 


 


コーヒーを豆から挽いてハンドドリップで淹れるようになり、それが外で飲む大抵のコーヒーより美味しいので、買うのがバカらしくなったという理由もあります。(しかも値段は20杯飲める200gのコーヒー豆で、だいたい買うコーヒー1杯~2杯分)


 


 


朝コーヒーを飲むときにまとめて2杯分淹れて、それを水筒に詰めています。


するとお昼過ぎまで十分に温かい。寝付きが悪くなるので、夕方以降はコーヒーは飲まないようにしています。


 


 


車で出かけるときも、映画を見るときも水筒があれば、温かい飲み物が長く飲める。


スタバでコーヒーを1杯飲んだら、帰りがけにお代わり150円のコーヒーを水筒に入れてもらうこともできます。大抵のコンビニコーヒーも入れてもらえるみたいだし、ローソンだと割引になるそうです。もちろん夏には冷たいままの飲み物も楽しめる。


 


 


自販機もどこにでもあるし、以前なら荷物の少なさ、身軽さのほうを重視していました。が、今はより大事にしたい価値観がある。こうやって自分にとって必要なものを見つけていくんだなという感じです。


 



「サハラマグ 夢重力」

[image error]


軽さと、構造がシンプルで洗いやすいことを基準に選択。

350mlはスタバのトールが入るサイズ。[image error]


 


「ナルゲン キッチン幅広」

[image error][image error]


アウトドア用で有名なナルゲンも透明&無地を選択(笑)。軽く、強く、落としても割れない。


旅行中などたっぷり水を用意したいときはこちら。お湯もOK。

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on February 15, 2018 14:00

February 14, 2018

「目標」と「指標」の違い 佐々木典士

「目標」と「指標」の違いには意識的になっている。


 


 


前回参加したマラソンでは、4時間切り(サブフォー)を目指していたがこれは指標だと捉えていた。走ることの目標は「健康的な体を維持する運動習慣」「意欲的に他のことにも取り組める体力づくり」「毎日の楽しみ」というようなもの。


 


 


走ることの目標を「フルマラソンを走ること」「サブフォーの達成」などに設定してしまうと、目標を達成したときに燃え尽きたり、やる気がなくなってしまう。


 


 


そうなるだろうと思っていたが、サブフォーなんて、走った翌日には新たな基準として自分に取り込まれて当たり前になってしまった。RPGでレベル10になったからといって、そのことを長く喜べるわけではないのと同じで、次のレベルのことをすぐに考え出す。目標タイムなんて、せいぜい毎日走るモチベーションのスパイスに使えるようなものだと思う。これは英語におけるTOEICの点数でもなんでもそうだと思う。


 


 


テスラの目標は「採掘して燃やす炭素経済から、太陽光発電経済への移行の促進に役立つこと」であるそうで、モデル3を何台売るとかいうのはそのためのステップであり指標。Googleの目標は「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」。


 


 


目標は遠い先にあるもので、しかも達成したら終わりが来るようなものではない。ミニマリストになることを目標としていて、捨てるものがなくなったときに虚無感を感じた。みたいな話もたまに聞くが同じようなこと。


 


 


ミニマリストもあくまで指標で「自分がやりたいことのために快適な環境を整える」「毎日穏やかに過ごすために生活を簡単にする」というようなことが本当は目標になるんだろうと思う。

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on February 14, 2018 14:00

February 9, 2018

モノを社員として考える 佐々木典士

自分を会社、モノを社員として考えてみる。


 


モノを買うということは基本的に、生涯賃金を支払って自分の会社に来てもらうということ。最初に賃金の全額を支払う、だがそのモノがどれぐらい働いてくれるかはよくわからない。


 



 


モノの時給は、働き者であるほど下がっていく。うちで言えば、文章を書くだけでなく、映画を見たり、音楽を聴いたりすべてをこなしてくれるMacBook Airがエースだと思う。時給は生涯賃金に対する割合でダントツで低い。


 


生涯賃金はそれなりに高額だが、毎日数時間、すでに何年も使っているので、時給換算すると数円ではないだろうか。スマホや、Kindleあたりも相当な働きものと言える。


 


 


一方でDIY工具である丸ノコさん。5万円で買ったが、おそらくまだ2時間もつかっていないので、時給は25,000円。こうなってくると、考えどきかもしれない。もしかすると丸ノコさんの切れ味が鋭すぎ(生産性が高すぎ)なので、働いている時間が短いだけかもしれない。


 


 


本質的に短時間労働で出番の少ないモノは、ひとつの会社に終身雇用というスタイルではなく、複数の会社で共有させてもらう、フリーランスのスタイルがいいようだ。


 


 


華やかな場面で着るドレスなど、どうしても時給が高くなってしまうものもあるだろう。高額だがどうしても働いてもらわなければいけないモノ。ゴルゴ13のような社員もたまにはいる。


 


 


100円ショップで買った一見安いものでも、一度も出社してくれなければ時給は100円のままで割高だと言える。


 


 


モノの価値を高い安いかではなく、どれぐらい自分という会社で働いていてくれるか、を基準に考えてみると少し目線が変わる。


 


 


ブラック企業のように振る舞わず、適時ケアもする。長く貢献してくれているモノをみると、お疲れさま、と一声かけたくなる。定年を迎える頃には、退職金だって持たせたくなるかもしれない。

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on February 09, 2018 14:51

February 7, 2018

あえてする「見えない化」 佐々木典士

「見える化」は生活の面でもさまざまなところで有効だ。


 



 


たとえば家計簿。毎月どれだけ何に使っているか理解することが節制への入り口。


「同居人モノさんの家賃」を自分がいくら負担しているかを考えるには1㎡あたりの家賃を考えてくださいとよく言っている。


シャンプーだって、透明の容器なら補充するタイミングがわかって便利だ。


 


 


しかし「見えない化」していく選択も必要なのではないかと思う。


 


 


たとえばぼくは、このブログのPVは基本的に見ないようにしている。


「こういう記事は人気で、こういう記事は不人気なんだなぁ」


と思えば、自分が楽しんで書くといういちばん大事なことが後回しになってしまうかもしれないから。


 


 


SNSにしてもそう。最近はありがたいことにtwitterのつぶやきに「いいね」が100ぐらいつくことはよくあるようになった。しかしそれが10ぐらいしかつかなかったときは、90の「どうでもいいね!」がついているとも言える。これは平均いいねが1000になっても1万になろうが原理的に同じだ。


 


 


「モノはわかりやすい値段というものがついているので人と比べやすく、そうでない経験は人と比べにくい」という話をたびたびしてきた。しかし、SNSや評価経済の中でフォロワーやいいねの数を基軸に自分の経験を考えるようなら、以前とまったく同じことになってしまう。


 


 


ぼくがtwitterや他のサービスに実装してほしいと思うのは、フォロワー数や、いいねの数を「自分だけ非公開」にできること。他人からは見えていていいが、自分は把握できないという設定。自分がその数値を気にしたくはないからだ。


 


 


労働に関しても同じ。


 


 


畠山千春さんが「自分たちで作った農作物は単価がついてしまうから市場で売らない」ということを言っていた。自分たちの感じている価値を大切にするための「見えない化」だ。先日行った南知多では「小魚はいくらでも釣れる。が数百円でいくらでも売っているので時間かけて釣りをするのは本当に好きな人にしか割に合わない」という話を聞いた。


 


 


市場でつく値段以上の価値を感じるから、農作業をしたり、釣りをしたりする。


労働の「時給換算」もときおりするにはいい。不当に長く働かされていることの証明にもなるかもしれない。


しかしそれが常日頃から頭にあると、ボランティアや無償の活動など手を出しづらくなってくる。高給取りの人はそんな場面でこんなことを言う。「私の時給がいくらか知ってるの?」


 


 


SNSやWebで注目されやすい方法はあって、人の感情を実害がない程度に逆撫ですればいい。非難するコメントはくるだろう。しかしそれを「ただのドットの集まり」と思えるようになって、人の感情を逆撫ですることはタダでできる行為だと思えれば注目は集まりやすくなる。


 


 


生きることは誰かを傷つけることで、ぼくも誰かを今も傷つけ続けているが、それを「使い放題サービス」のように浪費したくはない。


 


 


ぼくは人の喜びや悲しみ、感情が結局のところすべてだと思っている。価値の源泉はそこにしかないと思っている。それはなかなか見える化しにくいものなのだ。

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on February 07, 2018 15:04

February 1, 2018

國分功一郎「中動態の世界」〜意志の発生〜 佐々木典士

能動態と受動態、する/される、という区別は普遍的なものではなく、むしろ歴史としては新しいものであるらしい。


 


 


かつて、能動態でも受動態でもない「中動態」が存在していた。


 


この本を手に取ったのは、ぼくの今のテーマが習慣だから。習慣を実行しているときに、それをしようとする「意志」をほとんど使っていないと思うからだ。


 


この本の冒頭は、薬物・アルコール依存をサポートする女性との対話ではじまっている。


 



「しっかりとした意志をもって、努力して、『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」


 


習慣に関して、ぼくも同じ意見だ。努力して、意志に頼るとやめたいことはやめられないし、続けたいことを意志の力で成り立たせることはできないと思っている。意志に頼っても、ろくなことはない。頼ってできなければ「やっぱり私はダメな人間だ」という負のスパイラルが始まるからだ。


 


たとえば何かをすることに、意志が関与していないことについて、歩くことの例があげられている。


 



歩く動作は人体の全身に関わっている。人体には二〇〇以上の骨、一〇〇以上の関節、約四〇〇の骨格筋がある。それらがきわめて繊細な連携プレーを行うことによってはじめて歩く動作が可能になるわけだが、私はそうした複雑な人体の機構を自分で動かそうと思って動かしているわけではない。



 


ロボットを歩かせるのが難しいのは、この連携プレーのすべてを言語化し、指示を与えなければいけないからだろう。さらに路面の状況や、段差のフィードバックの計算も必要になってくる。人間なら、考えずに歩くことができる。


 



私が何ごとかをなすとき、私は意志をもって自分でその行為を遂行しているように感じる。また人が何ごとかをなすのを見ると、私はその人が意志を持って自分でその行為を遂行しているように感じる。しかし、「自分で」がいったい何を指しているのかを決定するのは容易ではないし、そこで想定されているような「意志」を行為の源泉と考えるのも難しい。



 



「私が歩く」という文が指し示してるのは、私が歩くというよりも、むしろ、私において歩行が実現されていると表現されるべき事態であった。



 


 


この本を紹介する中島岳志さんがあげる例にも惹かれた。


 


 



当時、ヒンディー語を専攻していた私は、「与格」という奇妙な構文に出会った。ヒンディー語では I love you を「私にあなたへの愛がやってきて留まっている」という言い方をする。自らの意志や力が及ばない事態や行為は、「~に」で始まる与格構文を使うのだと習った。



 


能動的なものでもなく、受動的なものでもない愛。どこからか自然にやってきて、しばし留まる愛。これは多くの人の実感に近いのではないだろうか?


 


 


習慣化がなされると、意志して「する」という感じではなくなってくる。「私において、習慣が実現されている」と言ったほうが自分でもしっくりくる。


 


 



能動の形式は、意志の存在を強くアピールする。この形式は、事態や行為の出発点が「私」にあり、また「私」こそがその原動力であることを強調する。



 


私は何ごとかをなすことを「意志」したのだから、行為の出発点は私にある。そして意志した人間はその結果の「責任」を負う。冒頭の対話はここに接続される。違法薬物の依存症者は、多くが性的虐待などの暴力を経験しているという。


 



ならば、自らの耐え難い何かによって、法を犯す行為を促されたのだとして、そのことの責任はいったいどう考えればよいだろうか? 何らかの罰は受けねばならないとしても、この行為を「本人の責任」と言って片付けてしまってよいのだろうか?



 


 


言語と思考は互いに関連性がある。たとえば日本語の「主語が省ける」という特性は、責任の主体をあいまいにする文化と関係があると思う。それと同じように、能動/受動という区別は、行為の出発点となる「意志」を明確にし、そこに「責任」を追わせるための区別である。ギリシア世界にはそもそも「意志」という言葉すらなかった……。


 


 



現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それはいわば尋問する言語である。



 


以上はこの本のほんのさわりの部分を紹介しただけ。ここから著者の國分さんは、古典ギリシア語やラテン語を学びつつ、中動態の歴史、文法解釈の歴史に分け入り、中動態をキーに哲学史を再考する。


 


 


その精緻な議論の積み重ねは、簡単な紹介ですらぼくの手に余るので興味を持った方はぜひ。國分さんの著作は推理小説みたいな構成で、哲学の知識があまりなくてもぐいぐい読めるのは『暇と退屈の倫理学』と同じだ。日本のアカデミズムの方がみなさんこういう書き手なら、もっと本を読む人が増えるのではないかと思う。


 


 


そういえば、國分さんの引用のスタイル「◯◯はこんなことを言っている」という文体は「ぼくモノ」でもパクったのだった……。


 


 


哲学は言葉の定義を明確にすることでもあるから、ときおり出てくるシャープな定義を読んでいるだけでもすっきりとして楽しい。


 


 


たとえばハンナ・アレントの政治の定義。


 



「政治の条件とは複数性であると述べている。複数性とは人間が必ず複数人いるということである。人間が複数人いるということは、そこに必ず不一致があるということだ。したがって政治とは、そうした不一致をもたらす複数性のなかで、人々が一致を探り、一致を達成し、コミュニティを動かしていく活動に他ならない」



 


たとえば「嫉妬」


 



「嫉妬とはある人の愛情が自分ではない別の人間に向けられることに対する憎しみであり、つねに第三者がかかわっている」


 


たとえば「ねたみ」



「この人は私とは違う」「この人は私よりも、もともとすぐれている」と思う人物のことを人はねたんだりしない。「こいつにこれができるのなら自分にだってできてもいいはずなのに」「あいつがそうであるのなら、自分だってそうであってもいいはずなのに」と思える人物のことを人はねたむ。ねたみは比較と切り離せないのであって、比較できないもの、たとえば自分とは格が違う人物に対しては人はそのような感情を抱きはしないのだ。



 


國分さんの専門は哲学だが、そのテーマが普通の人もなんとなく感じていて、しかしそれが当たり前すぎて疑問にすら思えないようなテーマを出発点としているから、自分に引きつけて読みやすいというのもあると思う。あとがきにもそんな姿勢が書かれている。


 



哲学は概念を扱う。哲学は漠然と心理を追求しているのではない。直面した問題に応答するべく概念を創造する――それが哲学の営みである(真理とはおそらくこの営みの副産物として得られるものだ)。哲学にできるのはそのようなことであり、そのようなことでしかない。だから私は自分が出会った問題に応答するべく、中動態の概念に取り組んだ。




國分功一郎『中動態の世界』

[image error][image error]


國分さんはイケメンの哲学者。なるほど、ぜんぜんねためない。


 

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on February 01, 2018 14:59

January 26, 2018

鶴見済「0円で生きる」 〜貫かれた倫理〜 佐々木典士

鶴見さんの本に、ぼくは何度も救われている。


 


10代20代の頃は少なからず「生きづらさ」を感じる人が多いと思う。


 


ぼくも今でこそ、のほほんと穏やかに暮らしているが、しんどいときもあった。鶴見さんが書かれたものがなかったら自死していたのではないだろうかと思う。しかも苦しい方法で。


 


 


鶴見さんはぼくの知らないことをいつもまとめて教えてくれる。丁寧に調べられたものを、本という形でシェアしてくれる。


 


鶴見さんの最初の本、完全自殺マニュアル[image error]からしてそうだった。


 


いろいろな自殺方法のリスクや苦しさなどがまとめられた本。ぼくが2度買ったことのある本は、この「完全自殺マニュアル」だけだ。


 


 


「いちばん迷惑がかからず、苦しくない自殺の方法は何か?」ということは誰でも知っておいて損はないはずだとぼくは思う。しかし、なぜか調べることさえ憚られるようなその知識を、本を通じてまとめて学ぶことができた。この本でいろんな影響を受けた人は多いと思うが、「いざとなったら楽に死ぬことができる」ということは、ぼくにはポジティブな影響があった。


 


 


新卒で入った大手の出版社を退社し、やりがいを求めて入った小さな出版社では人間関係がうまくいかなかった。そんなときに助けられたのは「人格改造マニュアル」だった。


 


 


新刊の「0円で生きる」でも知らなかったことがわかりやすくまとめられている。


ミニマリストであったり自分の持ち物が少ないということは、社会の中にあるものを共有させて頂くということ。必然的にシェアリングサービスなどには意識的になるが、それでも知らないことがたくさんあった。


 


 


例えば海外の例


・アメリカ版の「ジモティー」とも言える「Freecycle」は9000万人の会員で、400億円の経済規模を持っている。


・不用品放出市のRRFM(リアリー・リアリー・フリー・マーケット)は100以上の都市で盛り上がっている


・世界で捨てられている食べ物は、すべての食料生産の三分の一にもなること。日本が年間で捨てているまだ食べられる食べ物620万トンは、世界の食料援助よりも多いこと。


・ワークエクスチェンジにはWWOOFだけでなく、WorkawayやHelpXといったサービスもあること。


 


 


ミレーの「落ち穂拾い」という有名な絵画があるが、あれは農園の人が収獲しているのではなくて、収穫し残したものを貧しい人に拾わせるという施しの文化を描いている、というのも初めて知った。


 


 


法律なども丁寧に調べられているのもありがたく参考になる。


・DVDや映画などは非営利・無料であれば上映会を行うことができるということ。


・公道での商売は許可制だが、リヤカーでの豆腐の引き売りならば「移動している」ので問題ない。交通の妨げにならない範囲で、商売でなければ「0円ショップ」は道端で許可なく開催できるということ。


 


生活保護を受給するための条件、というのもいざというときのために、みんなが知っておいて損はないはずだがそういった知識も書かれている。


 


 


カウチサーフィンの実例や、初心者でも育てやすい野菜の紹介、ゴミ拾いのルポとそのコツ(!!)まで実体験を踏まえて書かれている箇所はとてもおもしろい。


 


 


そして各章の末にはレクチャーとして、贈与や寄付、私有制といったものの成り立ち、歴史的な背景といったややこしく、しかし抑えておきたい部分を解説してくれる箇所がある。


 


参考文献にあげられているポランニーや、買えば6000円以上するD・グレーバーの『負債論』なんて、なかなか手が出しづらいし読むのに骨が折れるけれど、そのエッセンスがわかりやすくまとめられている。


 


 


自分も書く側にまわったので、つい書く方の目線で本を読んでしまう。


 


 


鶴見さんはこの本を書くのに2年かかったとおっしゃっていたが、さもありなんという感じ。今の出版業界は短い期間で、たくさんの本を出さなくてはいけないような構造になっている。あとがきにも書かれていたが、今は数年かけて本を書かれるような方は少ない(というかそれだけでは食べていけない)。語り起こしをブックライターが書くというのが一般的なスタイルで(その方法自体が悪いわけではない)一部の本は文字数も内容もどんどん薄くなっている。


 


 


ぼくが今回の本を読んで感じいったのは、時間をかけて、人が調べづらいようなテーマを調べあげたものを本という形でシェアする 、本を出版するということに対して、今となっては貴重になってしまった「倫理」のようなものだった。


 


 


変な話だが「完全自殺マニュアル」のときからその「倫理」が貫かれていたのだと今はわかる。自分もそんな姿勢で、ものを書いていきたいと思う。


 


 


最後にこの本の大きなテーマである「贈与」について。


「贈与は単に物を貰って終わるものではなくたいていお返しの義務がある」


 


 


ぼくのところにも「とにかく本のお礼が言いたい」ということで感想のメールが来たりする。感想を送るなんて義務ではないし、1円の徳にもならないが、なぜそれを人はするのか?  今回それがなんとなくわかった。


 


 


人はあまりに多くを受け取ったと思ったら、自然に何かお返したくなるのだ。こうしてレビューを書くというのも、ぼくが鶴見さんから多すぎるものをすでに受け取っているからなのだと思う。


 



鶴見済「0円で生きる   小さくても豊かな経済の作り方」


いざとなったらタダで暮らしていけばいい。希望が持てる本。

[image error][image error]

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on January 26, 2018 15:32

January 15, 2018

静けさと歌。  沼畑直樹

 


基本的に家で仕事をするときは、相棒のハチくんとスカイプで画面共有をして仕事をしている。


1月はまぁまぁ忙しいのだけど、仕事を進めているうちに「石田ゆり子のインスタの猫のやつがさぁ」と脱線していく。


コーヒーを挽いていると、その音がハチくんのほうにギーギーとノイジーサウンドになるので、気をつけながら挽く。


ハチくんが石田ゆり子の愛猫ハニオの声を初めて聴いているので、邪魔したくない。



今日も部屋の静謐具合はいい。


洗い物もすべて拭き終え、音楽も聴いていない。


壁にはなにも貼っていないのが基本だが、友人の年賀状を娘が壁に貼り、さらにクリスマスプレゼントでもらったサーカスの壁紙も娘がペタペタ貼ったのでそのままにしているが…。


※友人の年賀状は息子の写真と同じポーズをしている、友人の子ども時代の写真を並べたもの。気に入ったらしい。


 


静かでいいなと思っていたら、ハチくんの方からガタゴト、ゴトゴトと師走の工事中のような騒音。


もう1月なのに、なんだろうと思っていたら、灯油ストーブの上で、コーヒーのお湯を沸かしている音だった。


沸騰に近づくと、余計にガタゴトするらしい。


PCのマイクはなんでも拾ってしまう。


 


静けさは好きだ。


私の家は大通りからすぐなのに、あまりそこから音はやってこない。


幹線道路の目の前だったら、こんなに静かにコーヒーを楽しめない。


でも、音に関することも好きだ。


小さいころ、音楽が苦手だった反動かもしれない。


 


実は最近、スピーカーを買った。


小さく、高性能で、デザインはシンプル、部屋に溶け込むかどうかという条件を満たし、スマホの音楽やさまざまな音楽を受け入れてくれるもの。


食事のときには普段聴かないクラシックやジャズを流すようになり、今までになく音楽を楽しんでいる。


いわゆるコンポ(CDやテープが聴けるオーディオセット)という高価なものは、兄がケンウッドの大きなやつを私が小学生のときに買ったため、自分が買う気はおきず、一人暮らしを初めてからもコンポもスピーカーも持ったことがなかった。


だから、生まれて初めてのスピーカーということになる。


本当は何もない部屋にクールなミニコンポひとつというのが素敵だけど、今の部屋の物量にそれほど影響を与えない小さいものにした。


 


 


音といえば、娘との歌の時間も大切にしている。


10年ほど前に、「日本人の大人がカラオケ以外の日常で一緒に歌う機会が激減している」と思い、歌を暗記して友人と一緒に歌う「アワライ」という遊びをしていた。


今も、人と一緒に歌うことは精神的に大切なことだと捉えていて、娘とも一緒に歌を歌う。


最近は知らない歌を流して、知っている歌のようにシャドーイングをするのが楽しい。


しっかりと聴きながら直後に歌うというのは結構高度な技で、集中しないとできない。


子どもは自然とそれができるので、「知っていることしか口にできない」大人より上手い。


 


10年以上前から、アーティストの宮沢和史さんのオフィシャルウェブサイトを制作していて、コンテンツ制作のために撮影やインタビューをしてきた。数年前に音楽活動を休止したのだが、今年から静かに再始動をする。


高野寛さんやおおはた雄一さんとのセッションだが、宮沢さんはきっと、歌いたくて仕方がないのではないか。


アーティストではない自分でも、友人たちとギターやウクレレを弾いて、同じ歌をうたったアワライの遊びが忘れられない。


静かな朝、静かな午後、静かな夜も楽しみつつ、音のある日常も存分に楽しみたいと思う。

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on January 15, 2018 20:33

January 10, 2018

モノとアイデンティティ 佐々木典士

毎朝違う部屋とベッドで起きたら、もっと自分のアイデンティティから自由になれるのではないだろうか?


 



 


こんなことを思ったのは、年末年始をたっぷりと実家で過ごしたから。そこには読んでいた漫画や、卒業アルバムや、自分を形作ってきたものがモノとして残っている。小学生のときの身長も、柱に油性マジックではっきりと残っている。


 


 


お気に入りのモノを手入れしてずっと過ごすこともすばらしいし、好きなモノであっても時折手放していくのも楽しい。細胞のように、モノも新陳代謝させる。


 


 


好きなモノ、自分を形作ってきたモノを毎日見つめるのは嬉しいものだが、自分のアイデンティティを固定化することでもあると思う。自分はこういうものが好き、自分はこういう人間、と毎日目で見て確認するようなものだから。


 


 


アイデンティティはどうしたって形作られる。声や身長みたいにどうしても逃れられないものもある。だけど、それを時折忘れたふりをしてみることも新しいことをはじめるのには有効だ。自分は引っ込み思案な人間だ、人見知りだ、ということをいっとき忘れればもっと出かけていける。


 


 


いろんなことに挑戦しているが、それにはモノが少ないことも役立っていると思う。手放すことでモノに付随していた自分を忘れる。一貫性を気にせず、そのときいちばんやりたいと思ったことをする。


 


 


ミニマリストになってよかったと最近思うのは、選んだものも、選ばなかった選択肢にも価値があると思えるようになったこと。素敵なモノはすばらしい。素敵なモノとお別れすることもまたすばらしい。


 


 


選択肢はいろいろとあるが、どっちもどうせ楽しめる。もうなんだっていい。

 •  0 comments  •  flag
Share on Twitter
Published on January 10, 2018 15:01

Fumio Sasaki's Blog

Fumio Sasaki
Fumio Sasaki isn't a Goodreads Author (yet), but they do have a blog, so here are some recent posts imported from their feed.
Follow Fumio Sasaki's blog with rss.