Fumio Sasaki's Blog, page 2
June 8, 2022
ミニマルなキッチン。 ミラノ・デザインウィーク2022
ミラノ・デザインウィーク2022に向けてアップされたの映像です。キッチンに対するコンセプト映像になっています。




カウンターのトップ部分も上下に動いて収納できるようです。「モノが浮かぶように、漂うように、呼吸するように」というコンセプトがあるようです。
こちらは以前に発表されたヴィラのアイディアです。
May 10, 2022
期待しすぎるのをやめよう。芸能人やプロスポーツに対する私たちの考え方。 沼畑直樹
今の暮らしが何かの原因で終わってしまったら。とか、自分のやっている何かが失敗してしまったら…とか。
たいていの人は不安を抱えている。
そんなときに、それは誰に対して思っているのか、誰にどう見られるのが怖くてそう思っているのか、考えてみると、自分の場合はとても小さな人間関係に留まる。
一戸建てに住むとご近所付き合いがあるけれども、そうゆう世間。
友人との世間。
仕事関係の世間。
いずれにおいても、私の場合は狭く小さな世間で生きているので、私がどうなろうと世間に何の影響もない。
でも、それがもし、大企業に勤めていたら…と考えると、世間の人数はぐっと増えて、評判とか期待とか、いろいろあるだろうなと思う。「会社辞めます」というのは、まだまだ勇気がいるだろうし、どんな噂が流れるかわからない。
有名人、プロの世界はもっと大きいかもしれない。
有名スポーツ選手、インフルエンサー、有名作家、芸能人。
「自分のことを知っている人がたくさん存在する世間」に囲まれて暮らしている人たち。
「その数が多いほど、人は不安を抱える」
と、ハイデガーを筆頭に哲学者たちはずっと昔から言っていて、それは、「人気ものにはなるな」という意味でもあると思う。
つまり、ハイデガーからすると、「ずっと成功者でいたい。人気者でいたい」と思えば思うほど、不安は高まっていくのだ。
だから、突然引退して一般人になりたいという有名人の行動は、メンタル的には非常に健康的だといえる。
自分のやりたいことをやる。ミニマリストという言葉が世間に知られた2015、2016年ごろ、こういうブログで再生回数のことを考えたり、SNSでフォロワーを増やすこと自体がどうなのかという話があった。
「○○さんがブログを閉じた」
なんて話も耳に入ってきて、なるほどなーと思ったりした。
世間から離れて、隠遁するように生きることに憧れるのは、十代の頃から同じ。
西行や良寛の影響は色濃い。
そのころからツイッターもインスタも更新はほぼしないで、インスタは1年前から友人に教えていないバイクアカウントを作って楽しんでいる。
誰からも何の期待もないので、ただ楽しい。
でももし、人気Youtuberがフォロワーという見えない人々の期待に応えようとして、自らの行動を定めていくのを、ハイデガーが見たらどう思うだろう。彼が批判した、世人という世間に縛られる生き方とは、まさにこのことだろうか。
有名になると不安は増していく。
そうやって、芸能人やプロスポーツ選手が抱えるメンタルの問題を、Youtuberも知ることになる。
このブログも同じだ。
読んでいる人がいると思ったときに、マーケティング的に書いていくと、そのうち書くことはなくなっていく。本当に書きたいことじゃないからだ。
私個人としては、ミニマリスト、ミニマリズムは極私的な行動から始まっていて、世間とは関係なく、自分が思っていることを書いてきた。
自分の小さい世界で完結するミニマリストの話を書く。
世間からずれていても、関係ない。
なので、やめるもやめないもない。
音楽、スポーツ、芸能といったプロが存在するものも、自分のためにやればいいと思う。
「ずっとランキング1位でいないと駄目だ」という期待は強すぎる。
じゃあプロという世界が通用しないというのなら、そうなのかもしれない。
プロとアマチュアの世界があるという理由で、やりたいことをやらない人も多い。
大会で1位になれなかったからやめた。売上が落ちたから廃刊にした。編集者が駄目といったから書かなかった。
歌手になれなかったら歌うのやめた。
そうやって世間のせいにせずに、やりたいことをやる世界がいい。
人気があるとかないとか、そういうのはどうでもいい。
いつだって辞めていい。小さい世間で生きることは、精神には開放的で、問題がない。
そんな話を妻としていたけれど、田舎の小さい集落でも、濃い人間関係だったらどうだろう? と思ったりもした。
都会だと人口は多いけど関係性は希薄。
久米島という離島での経験から言うと、濃くてもあまり問題なかったと言える。
喧嘩とかよくしたけれど、それはそれで人間的だったと思える。
これが、「かつて有名人だった人の田舎暮らし」になったときの、世間の目は冷たい。
その冷たい視線を、もうやめにしたい。
「あの人は今?」的なものを見て、田舎暮らしをしている人にネガティブな感情を持ったら、こう考えてほしい。
「精神的に健全すぎる!」
多くの人に見られる人生から、見られない人生を求めたのだ。やりたいことをやろうと。
芸能人は、芸能界をやめること、職種を変えることにどうかネガティブに思わないでほしい。
人気があってもどんどん変えていい。そのためには、引退することを失敗のように捉える私たちの考え方を改めなくてはいけない。
スポーツ選手も、特にオリンピックでは期待に応えようという思いが強くなるけれど、いつでも引退していい。
自分のためのスポーツをしていい。
北京オリンピックでは、金メダルだけじゃない、素晴らしいパフォーマンスをみんなで称え合うという選手たちの発信があった。競い合うから見ていて楽しいのは間違いないけれど、過度に金メダルの数を競うことについては、考え直す時期に来ているのかもしれない。
とはいえ、大谷にホームランたくさん打って欲しい自分がいるのだから、簡単なことではない。
April 26, 2022
偶然を引き受ける 佐々木典士
ぼくは今のぼくに結構満足している。そして今のぼくがあるのは、最初のミニマリストの本を書いたことが大きい。なぜそれができたかと言えば、沼畑さんが書いた記事で「ミニマリスト」という言葉を他の人よりも早いタイミングで知ったから。
沼畑さんと知り合ったのは、ぼくが以前働いていた出版社ワニブックスで編集者として働いていた頃。小林涼子さんの写真集を担当するカメラマンとして出会ったことがきっかけだった。
実のところ、他のカメラマンにお願いすることで決まりかけていたのだが、ヨーロッパの観光局とも仕事をしていてつながりのある沼畑さんを事務所の方に紹介され、ロケ地も含めて写真集の方向性は180度変わっていったのだった。
ぼくは編集者として出版社に在籍しながら、著者としてミニマリストの本を出したのだが、これはかなり異例のことだった。もちろん反対もあったが、それができたのは、ワニブックスが大きすぎない会社だったからだと思う。もしぼくが就職活動の時に志望していた大手の出版社に入社できていたとしたら、これは許されなかったのではないかと思う。
ぼくがワニブックスに入社したのは、前の出版社で人間関係がうまくいかず、逃げ込むように門を叩いたことがきっかけだった。前の出版社に入社したのは……と不思議な縁は続いていく。
つまり今のぼくがあるのは、運や偶然の力が大きい。そしてしばしば、自分が希望していたことが叶わなかったからこそ、叶ったと思えることがたくさんある。
ぼくが書いたミニマリズムも習慣の本も、自分の力で何かを組み立てようとする試みだったと思う。確かにぼくの生活はあまりに混乱していたので、コントロールしてそれなりの秩序を、自分の手に取り戻す必要があった。
一方で、振り返って見るとぼくの人生は自分でコントロールできないものの方にむしろ多くを負っている。運、偶然、縁、そういうものに対して敬虔な気持ちになる。
そして自分が何かを手にできたのは、たまたまである、と思えることは想像力の源になる。何かうまくいかない人を見たときに、その人と自分を分かつのはただの偶然だったと思えば、その偶然がもたらした結果を、もう少し平らにならそうかとも思える。
でも、自分の力は大したことがないのだから、すべて偶然に任せればよい、という考えには与しない。準備ができていなければ、たまたま廻ってきた偶然を取りそこねることもある。
最近、偶然を研究した九鬼周造を紹介した2冊の本を読んだ。意図したわけでもなくこれも偶然だ。
宮野真生子、磯野真穂 『急に具合が悪くなる』(晶文社)
中島岳志『思いがけず利他』(ミシマ社)
後者の本で九鬼周造のこんな言葉が紹介されている。
人間としてその時になし得ることは、意志が引返してそれを意志して、自分がそれを自由に選んだのと同じわけ合いにすることであります。
【九鬼1991:80-81】
大きな力を持っているのは偶然だが、人はそれを過去に引き返すように意志して、引き受けることができる。ほとんど偶然だが、さもそれが必然だったかのように受け取ることができる。
ぼくがミニマリストの本を書くとき、頭に浮かんだのはこんなイメージだった。ビリヤード台に1000個ぐらいのボールが置いてある。誰かが打ったブレイクショットは複雑怪奇に跳ね返り、ひとつの玉がビリヤード台を飛び出して、たまたまそこを通りかかったぼくの後頭部に当たる。ぼくは後ろを振り返り、あたりを見回した。
「え!? まさかぼくがやるんですか??」
April 2, 2022
卵かけご飯のジレンマ 佐々木典士
1人で食べる昼食は簡単なものでいいと思う。実際に、お弁当を持って図書館に行っていたときは毎日同じものを持参していた。フィリピンでもランチに食べるのは毎日スパム丼だった。卵かけご飯でもいい。簡単だし、いつ食べても美味しい。
母親は料理が得意で、特に苦にもならないようでただの昼食に4品も5品もおかずが並んでいたりする。その母親でも、自分ひとりで夕食を食べるときには、納豆とご飯とあとは漬物でも適当に食べていたりする。
自分ひとりのためにはなかなか時間をかけた凝った料理をする気にならず、シンプルなモノで充分満足。しかし誰か一緒に食べる人がいると少しは料理もしようと思う。自分ひとりのためではなく誰かのために何かをしようとすると意志力が生まれるからだ。これを「卵かけご飯のジレンマ」と呼んでいる。
映画『100日間のシンプルライフ』は主人公のペトリが持ち物をすべて倉庫に預け、1日1つだけ持って帰ってくる、というのが物語の要旨。その途中でペトリはある程度の数のモノで満足してしまう。だがガールフレンドとデートする段になって、自分の服や靴がようやく気になりはじめ、追加で倉庫に自分の服を取りに行く。誰かと共にいることを意識すると、自分の行動に変化が生まれる。
ぼくもなんだか自分の人生に満足してしまっていた。美味しいものは東京でたくさん食べた。海外で美しい景色もたくさん見た。書いた本は驚くほど多くの人に読まれた。ありがたいことだが、それで意志力は薄くなってしまったと感じていた。もとよりガンガン稼いでやろうとか、有名になってブイブイいわせてやろうという思いが薄いせいもある。しかしどうやら自分ひとりの満足度というのは、それほど大きな器ではなく人生の途中でも充分に満たせてしまうものらしい。
コロナ禍を実家で過ごすうちに、地元のコミュニティにも顔を出すようになった。馴染みの店ができたり、仕事を手伝ったりもするようになった。ボランティアだし、お金が出ていくことも多いが、ありがたいことにいちばん大切な意志力が戻ってきたと感じたりする。誰かのためなら、動ける。他の誰かというのは、いつまでたっても満たすことは到底できない大きな器だ。
次の本はお金がテーマだが、お金は人間が生み出したいちばんのイノベーションではあるものの、人が持っている生来のものを歪ませてしまうと思う。銀行口座は各個人が持ち、管理するものだから、それがマイナスにならないように生き終えられれば人生ゲームクリア。そのために各自うまくやっていきましょう、解散!! というのが時代の気分だ。
お金を生み出す原資は時間だから、その大事な時間は気軽に人にあげられないものになってしまう。バカとは付き合うな、役に立たないものは切り捨てろ! というメッセージがポジティブに聞こえる時代だ。自分も事実、そうしてきた部分が多いにある。ミニマリストだって一般的にはそんなイメージで捉えられているだろう。その方針で、首尾よく生涯安心できる資産を作れたして、肝心要の生きる理由がなくなってしまっては元も子もない。
鶴見済さんが、
良い人間関係>ひとりでいること>悪い人間関係
という定式(引用はぼくの理解です)を言われていたが、その通りだと思う。自分がいたずらに消費されて、貶められてしまうような人間関係だったら断ち切って、ひとりでいるほうがよっぽどマシだ。しかしそこから回復し、ひとりでいることにも満足したら、その後は、自分が貢献でき、意志力も培われるような人間関係の構築に向かった方がいいのかもしれない。それには時間もエネルギーも必要だ、お金もかかり、煩わしいこともあるだろう。それでも、自分をこの世につなぎとめてくれるような存在は必要なもののように思う。
ここのところのぼくは、かつての自分が切り捨てていたことを拾い集めてばかりだ。
January 10, 2022
『ぼくたちは習慣で、できている。増補版』 ──自己啓発の向こうに 佐々木典士
「ぼくたちは習慣で、できている。」を増補した文庫版がちくま文庫より発売になりました。何がオリジナル版からグレードアップしたのかお知らせします!
1 文章を読みやすく、論旨をわかりやすくもうそんなに文章に手を入れるところもないよな、と思っておりました。しかしオリジナル版の発売から3年が経ってみると、かつて書いた文章にはアラが目立ち、下手だなと思うところが結構ありました。下手だなと思えるということは、少しずつでも何か成長していっているのでしょうか? そうであれ!
また論旨がツイストしすぎてわかりづらい部分は少しすっきりさせました。
習慣を身につけるための基本的な考えは当時と変わっていませんが、より明確になった部分もあるのでオリジナル版より論旨がつかみやすくなっていると思います。
2 習慣を身につけるためのルールを5つ追加!! 合計55のルールに!!追加したのは
●習慣は自分との約束
●動機や報酬は複数持つ
●毎日やらないことは下手になる
●すぐに花丸をあげる
●人の習慣と折り合いをつける
という5つの項目。
総じて、習慣ができなかった時も自分を認めてあげることが大事ということを意識していると思います。本について話してほしいと言われることもあるのですが、本当に本の中にすべてを置いてきた、という感じなので、本にあること以上のことで言うことがないんですよね。つまり、網羅的によくまとまっているということです笑。
3 カバーの香山哲さんのイラストがかわいい!!イラストかわいい、イラストかわいい、イラストかわいい!
香山さんの「ベルリンうわの空」はどこの小さな書店でも、愛されている感じで嫉妬です笑。香山さんに勇気を出してお願いできてよかった。香山さんからラフが上がってきた時に、足元に犬か、猫などを付きまとわせみてはどうか、という案を考え、恐れ多くもそれを採用頂きました。イラストがかわいいので、お手元にぜひ。

4 参考文献、出典を正確に詳しく!!RT 表紙の絵を描きました。オビの下には、ねこがいます。全ページ、コツコツやるのを励ましてくれる感じです。— Tetsu Kayama (@kayamatetsu) December 31, 2021
香山哲さんの感想。嬉しい!
一般書の特徴として、何かを引用する時に、冗長性を避け読みやすさを重視するということがあります。ぼくもそれに倣ってきました。(たとえば、何かの実験を参照するときに、出典を明確にせず、ある実験で行われた~で済ませるとか。名言、格言の類も、言った人の名前だけで済ませるとか)
しかし、近年のエビデンスやソースの正確性に対する要請は強まっていて、ぼくもあまりに曖昧だったり、出典を明確にしないネットの情報や動画にはうんざりすることも多々あるので、できるだけ正確を期しました。あまりに昔の人すぎるものなどは別にして、基本的に誰かの言葉や、引用については辿れるようにしています。
参照した時のメモが失われていることもあり、ひとつひとつ出典を再確認していきました。今回はこの作業がめちゃくちゃに大変でした! 次にこんなことがないように次回に活かします。

オリジナル版の発売イベントでも対談させて頂いたphaさん。すごく共通した部分があると思っていて(めちゃくちゃ飽きっぽいところとか)本についてだけでなく、ぼく個人についての書き手としての資質を論じてくださり、大変嬉しく、励みになりました。
そして文庫版あとがき。本を書いてしばらくすると、自分の考えも少しずつ変わっていくところがあります。改めて客観的に見た自分の本について書きました。できた自分を好きになるだけでなく、できない自分、できない人をどう無条件に肯定するのか、というのが今の大きなテーマでそれについても書きました。
準備運動はもう充分ぼくはこの本を書いてから、自己啓発やビジネス本を読むことが基本的になくなりました。自分を奮い立たせるような名言、格言も大好きでしたが、そういったものもあまり必要ではなくなったようです。
習慣を身につける=あまり考えずに、自動的に、自分の課題に取り組む。それが毎日できていれば、意識とか、取り組む姿勢を変えるとかそういった曖昧なものが必要ではなくなります。短い間意識が変わっても、その先の行動が変わらなければ、何も変わりません。そして思いついたときだけ行動してもまた何も変わらない。毎日のように継続するしかない。
効率的な方法論を探し続けるのではなく、適当なものが見つかったらとにかく続ける。大逆転はなく、とにかくコツコツやるしかない。じゃあすでに長年コツコツやっている人には勝てないじゃないかと思いそうですが、たどり着いた到達点ではなく、コツコツできた満足感は誰にも平等に与えられていると思います。習慣は自己啓発を超えているもの、向こう側にあるもの(beyond)という言葉を見かけたことがありますが、ぼくもそう思います。
ミニマリズムも習慣も、ぼくにとっては準備運動のようなものだったと思うことがあります。準備運動はそろそろ終わらせて、自分の課題に取り組みたい人にはぜひおすすめです。
ぼくは本を売って生活しており、ぼくへの課金先は今の所本だけです笑。次の本を書くまでの生活費になります。おいお前、次も良い本書けよと応援して頂けると嬉しいです。

December 8, 2021
大きな石を置くこと 佐々木典士
平安時代の『作庭記』には「まず石を置いてしまう」ことが肝要だと書かれているそうだ(千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太『ライティングの哲学──書けない悩みのための執筆論』P105)。何もない空っぽの場所で、いざ庭作りをしようとすると、無限のデザインと方法の可能性があるわけで、あまりの自由さに途方にくれてしまう。
だから、まずは石を置いてみる。その石に従って、次の置くべき石が決まったり、流れができ、すべきことがはっきりとしてくる。一度置いてしまった大きくて重い石を取り除くのには骨が折れるから、そこで「取り返しのつかなさ」ができてくる。無限の自由は制限されてしまうが、それで途方に暮れてしまうようなこともなくなる。
コロナ禍でフィリピンに戻れず、実家の香川県で過ごすようになって「大きな石」を置いた人とさまざまに触れ合うようになった。わかりやすいのは自分でお店を開いている人だ。カフェや本屋をしている人たちと顔なじみになり話をしていると、この人達は大きな石をすでに置いた人たちなんだな、と思う。
有限性があってこそ、発揮される自由クルミドコーヒーのオーナーであり、『ゆっくり、いそげ ──カフェからはじめる人を手段化しない経済』という著作もある影山知明さんのトークショーにも参加した。影山さんは西国分寺という自分の地元を中心に店舗を運営し、地域通貨などにも取り組み地元の振興に努めている。その影山さんはこんなことを話していた。
「お店を開き、自分の居場所がはっきりしているからこそ、自由を感じることができる。旅も、帰ってくる場所があるから安心して旅立つことができる。お店を開いていると、大体いつもこの辺りに自分がいるだろうと友人も思ってくれているので、人とも以前よりも会いやすくなった」。
(正確な引用ではありません)
以前は、単に身軽でいればそれだけ自由が増すと思っていた。モノも少なく、結婚もしていない、会社にも勤めていない。だから、世界中どこへだって行き、そこで暮らすことができる。無限の自由だ。フィリピンに住んだ時は確かに大きな自由も感じた。遅々として何も進まず、鬱屈している日本の現状を丸ごとなかったかのように思える解放感。そうこうしているうちに、日本で定額でどこでも住めるというサービスも出始めてきた。そのサービスは自分にはうってつけのように思えたが、そこまで食指が動かなかったのは、毎日旅をしていると、それもまた日常になってしまうということを知っていたからだと思う。
人が腰を据えるとき前田有佳利さんの『ゲストハウスガイド100 ──Japan Hostel & Guesthouse Guide 』を編集したとき、ゲストハウスのオーナーの典型的なプロフィールがあることに気づいた。世界をバックパッカーとして巡り、今度は夫婦で旅人をもてなす側にまわりたいと思った、というものだ。年齢なのか、すでに溜まった経験値が充分になったからなのかわからないが、人がどんなタイミングで腰を据えようと思うのか、とても興味が湧いたことを覚えている。
お店を開いたり、家を買ったりすることは自分にとっては、最も縁遠い行為だと考えていた。しかし「取り返しがつかない」からこそ覚悟ができ、膨大な選択肢の中から、何を自分の問題として取り組むのか決めることができる。人との関係性を、腰を据えて育むことができる。それは銀行口座に記載されるわけではないけれど、本当に大きな財産だと思う。今までそういうことをほとんどやってこなかった自分に、欠けているものだ。
空間的に離れると、相手が愛おしくなる──absence makes the heart grow fonder一方で。とてもとっても飽き性な自分の性質も忘れてはいけないと思う。フィリピンは第2の故郷のように感じているが、そんな国がもう1つ2つあったらどんなにいいかと思ったりもする。ゲテモノでもなんでも食べ、お腹も壊さず、乗り物と移動がとにかく好きな自分は、かつて開拓者として活躍したような人たちの形質を受け継いでいるとも思う。
エチオピアのノマド、ダサネッチを研究している佐川徹さんはこんなことを言っている。移動生活は牧畜民として生きるには必須なことだが、それは人間関係の調整にも役立っているという。
「むかついている相手と毎日顔を合わせていれば負の感情が増幅していきますが、しばらく顔をあわせないでいると、だいたいの感情は収まっていく。移動には、他人と物理的に距離を取るという役割もあるんです
(松村圭一郎+コクヨ野外学習センター・編『働くことの人類学』P106)。
アフリカの民族社会には呪術や呪いが多いが、遊動的な暮らしをする牧畜民には相対的に呪術が少ないとする研究もあるようだ。自分も、いつも同じ上司と仕事をするなんて、もうとてもじゃないが考えれない状態になってしまっている。
自分がそろそろ腰を据えるようなタイミングに来ているのか、それとも単に自分がしてきてこなかったものを見て眩しく思えているだけ、ただのないものねだりなのかはよくからない。ただ、大きな石の置くことの価値を、前とは違った風に今は眺めている。でも本当に飽きっぽいから、本当に。
October 12, 2021
一服(たばこではない)したい。 一戸建てのチルアウト(住宅街) Empty Space 沼畑直樹
前に住んでいた吉祥寺の家には広いベランダがあり、テーブルと椅子があったので夕方はそこで涼みながらお酒を愉しめた。
でも、今住んでいる一戸建てには、そういったベランダはない。
夕方、陽が暮れかけて、のんびりと風に吹かれてワインとかビールとか、飲みたい。
今の家の前にはコンクリ仕立ての駐車場があり、それなりにスペースもある。
でも、なかなか上手くいかない。
理由はいろいろあって、まず駐車場なので柵や仕切りがないこと。近所から丸見えであること。
立ちのみでもいいのだけれど、グラスを休めるカウンターがないこと。
それで、壁に小さなカウンターが付いていればいいのに。
と贅沢なことをずっと考えていた。
その話を友人のハチくんにすると、彼は彼の家の屋上用にささっと数日で作ってしまった。
飲み物用カウンター。




フェンスにひっかけるタイプで、作るのは簡単らしい。
そして、そこで飲むとすごく楽しいという。
椅子を出せば、低い位置にカウンターを移動して使うこともできる。
いいなあと思っているうちに、外呑みに最高のシーズンがやってきた。
まず、夕方5時付近に夕暮れが来る。
そして、風がとにかく気持ちいい。
冬、つまり2021年の1月から考えると、こんなに外呑みに最適な季候はなかった。
寒さが和らぐ4月、5月、一戸建てのコンクリあたりには、赤いダニのようなものが発生する。
これは梅雨前にしっかり消えてなくなるのだけども、このダニたちがいる限り、外呑みする気にはならない。
そして、今年の梅雨はよくわからなかった。いつ来るのかわからないまま、曇り空が続いたり、ちょっとだけ雨が降ったり、そうこうしているうちに夏が来た。
もう熱くて外には出られない。
だから、この9月後半から10月にかけての涼しさは、本当に待ちに待った涼しさ。
夕方にバイクに乗っても腕に当たる風がもう気持ちいい。
外呑みには、秋しかないのだ。外で何かすること。外でまったりすること。
それが出来ていない。
あんなに行っていたキャンプ。コロナで行けず、今は行けるだろうけど、混んでるのを予想して行きたくない。
近所のBBQ場も閉鎖。
日中は家の中に閉じこもって仕事。外にはあまり出ない。
家のまわりにも出ない。
どうしてかはわからない。
どうして外に出て一息つかないのか。
昔、たばこを吸っていたときは、ベランダや外に出て、一息ついていたはず。
近所の人たちは行動はだいたい世代別で同じで、年配の人はしょちゅう外に出て井戸端会議をしている。
一方、同年代の人たちはまったく出てこない。
たぶん、たばこ吸う人がいたら、外に出て吸うのかもしれない。でも、近所にはいない。
書きながら、せめてコーヒーカップでも持って外に出て一服(たばこではない)しようと思ったのだけど、小雨が降っている…。
窓際で外を眺めてながらコーヒー、みたいのも、外を監視しているみたいなので、やる人はいない。
カーテンを閉めてるから、少し開けて外を覗くのが少しクリーピーなのだ。
もう面倒くさいので、カーテンロールを全開にした。
前にもそんなことしたな…と思いつつ、開けると、やはり違いがある。
椅子に座りながら、外を堂々と眺められる。
窓の近くにも立てる。
外の人が家の中を覗けるのと引き換えに、堂々と外を眺められる。
そのうちまたカーテンロールを閉じる日々に戻るだろう。
ただ、今はとりあえず、椅子に座りながらクルマに当たる雨粒を眺めてるだけで、一服できてる。
※一服(ひとやすみ)の英語はチルアウト(chill out)もしくはキッキッ(kick it)
September 16, 2021
コンプレックスが形作る個性 佐々木典士
顔のパーツの理想形というのは、なぜか似通っている。高い鼻筋、細い顎、並行二重、整った歯並び。だから理想に近づけようと手術していくと、同じような顔が量産されてしまうことになる。どこかの国では、ミスコンの出場者が皆同じ顔で区別ができないと話題になった。
であれば、他者からの区別や、個性を形作っているのはむしろコンプレックスの方だと言うことができる。
人は苦手なものを研究する芸能界に接して働いていた時、洋服のプロフェッシェナルであるスタイリストさんの多くが美男美女でもスタイルが良くもないことに気がついた(本を出して自分のライフスタイルを紹介しているような人が代表ですが、例外ももちろんいます)。
なるほど、美形でスタイルがよければ、服は適当なTシャツとジーンズでさまになる。そうではなく、簡単に服を着るだけでは足が短く見えたり、顔が大きく見えたりするから、そうならないために研究する余地が生まれる。似合う色が少なければ、なぜ似合わないのか色について考えるきっかけになる。
人は苦手なものを研究する。英語の文法を勉強するのは、英語が苦手だからだ。日本に生まれて、日本語ネイティブの人は日本語の文法を勉強しようとは思わない。
何かにつまずくから、つまずかないための工夫をする。ぼくの本もいつも苦手なものがテーマになっている。片付けやモノの管理が苦手だったからミニマリズム、ついついダラダラしてしまうから習慣、そして次は追い求めることに苦手意識があるお金。そうして考えた苦手の原因や、それに向き合うための方法を人に伝えることが仕事にもなる。
コンプレックスや苦手なものこそが自分を形作っていると思えば、単に疎ましく消去すべきものではなくなり、眺め方が変わる。
September 11, 2021
レビュー社会の先にあるもの 佐々木典士
メルカリでやり取りをしていると、ほとんどの取引がとてもスムーズに進む。
みなさん礼儀正しく、知らない相手だが安心して取引できる。
「短い間ですが、よろしくお願いいたします」「ご購入ありがとうございます」「発送まで少々お待ち下さい」。丁寧で過不足がない、しかしあまりにテンプレートすぎるメッセージをやり取りしていると、相手がただ同じ言葉を吐き続けるbotかチャットAIのように思えてくる。これが最初に感じた違和感だった。
メルカリでは以前まで、評価は3択だったのだが2択に変わった。(「良い」「普通」「悪い」の3択から、「良かった」「悪かった」の2択になった。さらに「良かった」がデフォルトとして選択されている)。悪い評価は結構思いきらないとつけられるものではなく、少々の瑕疵ならば「良い」でいいかと思える。
そうしてみんなが保持している評価は以前よりも高くなったように思う。24時間以内に発送している出品者には「スピード発送バッジ」まで与えられる。そうして出品者の行為も以前よりもきちんとしてきているように思う。
高評価の不自由こういった評価の高さというのは良いものに思える反面、それに行動の方が縛られるということもある。自分の評価を下げたくないから、きちんと梱包し早く発送する。スピード発送バッジを剥奪されたくなければ、とにかく早く発送しなければならない。ミシュランで星を与えられたレストランは相当な重圧がかかるというが、同じような話が個人にも降り掛かってきているのかもしれない。
人間だから、今回は大体で梱包したい。ちょっとコンビニに行く予定もないから発送はまた後日にしたい、というときはあるはずだ。しかし、評価の維持が気にかかるとそれに心や行動の方を合わせてしまう。自分が持っている評価が、まるで上司のような存在になる。
「コスパ」の強迫観念飲食店やホテルを選ぶときに、自分もよくレビューを参照する。星が4つあるカフェやホテルは確かに満足度が高い。しかしそれはすでに定まっている評価を追認するような感じでおもしろくないことはよくある。期待したものが期待したとおりに出てきて満足する。食べログの評価3の店が自分にとっては最高のお店になったり、ロクなAmazonレビューがない本が自分の愛読書になった時に比べたら嬉しくはない。
期待したものを期待した通りに受け取りたいというのは「コスパ」という考え方が脊髄まで染みわたってしまった結果だと思う。払ったものに対して、同じかそれ以上の報酬が必ず欲しいという脅迫観念。
「これで1000円は安い!」という評判のランチを食べに行けば、その通りの体験が得られる。レビューがなければただ立地が良かっただけで、接客も良くなく不味いランチを不相応のお金を出して食べなければいけないかもしれない。
レビューの評価が高い店は、なおさら流行り、悪い店は淘汰されていく。こうしてレビューというのは自然と新自由主義的な価値観に近くなっている。レビューが参照できない時代なら、もう50m歩けば名店に出会えたのに、歩くのも疲れ、適当なところで妥協して入った店で不味い飯を食べさせられるという悲しい経験もあっただろう。しかし代わりに、理由はどうあれがんばれないお店にもお金が落ちるということが起きていたはずだ。すでに悪いレビューがついてしまっているせいで挽回のチャンスすら奪われることもあるだろう。
すべてそつがない世界レビューシステムはこれからも勢力を拡大しそうだ。メルカリの出品者がきちんとした人ばかりになったように、気がつくとどこに行っても評価4以上の飲食店だらけになるかもしれない。メニュー、接客の声がけ、雰囲気、高評価されるレビューの価値観が幅広く共有化され、それをなぞった店だらけになるかもしれない。
しかし、すべてそつがない世界はディストピアだと思う。ここまで書いて、気になっていたNetflix『ブラック・ミラー』の「ランク社会」(3シーズン第1エピソード)を見たら、今の自分の危惧が完璧に映像化されていた。
その未来はこんな設定になっている。あらゆる人の瞳には薄い装置が埋め込まれている。外すことのないコンタクトのようなものだ。その装置を通して他人を見ると、画像認識で名前もわかるし、その人の評価もわかる。(☆4.2というように☆5点が満点)やろうと思えば、現状でも近いことがすぐできそうな仕組みがリアルだ。
他人が羨むような豪華さではないが堅実に暮らす主人公のまわりは、ぼくが危惧したように、大体4点の人ばかりになっている。なぜならエレベーターで交わす挨拶や、タクシーに乗った時の乗車態度など生活のすべての行為が終わった後にスマホで評価されるから。メルカリの相互評価システムが、あらゆる日常で行われていると考えてみればいい。
人は思ってもいないようなお世辞を言い合ったり、感じよく接することに努め、☆5を互いに送り合う。☆の評価は社会のすべての基準となっていて、評価が高ければ家賃の割引を受けたり、優先レーンでサービスが受けられたりする。
見るだけでその人の評価がわかるので、初対面の人の評価もすぐにわかる。(物語の途中で☆が落ちてしまった主人公がヒッチハイクをするのだが、危険な人物だと見なされて乗せてもらない)
危険で信用できない人物がすぐにわかる極めて安全な社会。付き合うべき評価の高い人間がすぐにわかる社会。自分の内面や感情は置いておいて、とにかく感じよくしなければいけない社会。これは完全なディストピアだ。
August 8, 2021
オリンピックと執筆 佐々木典士
卓球の伊藤美誠選手が、サーブする球を貫くように見つめる姿を見て、自分は原稿を書く時にこれほど張り詰められているだろうかと内省した。
オリンピックが開催に至るまでの経緯については、いろいろと思うところはある。それは忘れないとして、4年に1回だけ、負けたら終わりという真剣勝負の数々は想像していた以上に自分の胸に迫った。
執筆が張り詰めた感じがしないのは、やり直しができるからだ。間違った文字は消せばいいし、各種のアウトライナーを使えば、構成も自由自在に変更できる。やり直しがきかないように、原稿用紙に手書きしたり、タイプライターを使えばもっと緊張感が出るかもしれないと思うことはある。昔の文豪たちは卓球のサーブ時のように原稿用紙を睨みつけていたのだろうか? だが、さすがに不便も大きいし、ゲラで直してしまえるのは結局同じだ。
オリンピックの競技の中で、執筆に少しだけ似ているかなと思ったのはサーフィンだ。波は自然のものなので、一発勝負では実力が正確に測れない。だから決められた数十分で何度も波に乗り、一番得点の高い2本の得点で勝負する。
サーフィンのような数十分の単位で、俳句で勝負をすればかなり似通った緊張感になるかもしれない。文章の勝ち負けを判定するのは難しいことだが、スポーツのようにわかりやすいライバルもできたりして、切磋琢磨できたりするかもしれない。
一般的に原稿の締め切りは、サーフィンよりももっと長い区切りだ。その中で何度も何度も書き直し、一番良いと思った形を世の中に出す。400mリレーのような一回限りの勝負では逆に、練習でどれだけ成功していたとしても本番でバトンがつながらないこともある。
一回限りの真剣勝負と、やり直しの効く執筆ではそんな風に違うところもあるけれど、同じなのは人の目にふれるところ以外は地味で苦しいものだということだ。
アスリートが勝っても負けてもインタビューで涙を流すのは、苦しかった練習や、サポートしてくれた人たちなど、ここに至るまでの過程に思い至るからだろう。大きな舞台で勝てばスポットライトを浴びるが、アスリートがどれだけの栄誉を得たとしてもそこに至るまでの苦しみの方が大きいと思う。
執筆も形になって世に出たものを見れば、美しいと思えるかもしれないが、最中の行為は基本的に苦しい。書く時には、あの人の本のように、こんな風に書けたらいいなという理想だけはある。その理想と自分が今日書けるものにはいつもギャップがある。だから苦しい。自分の無能さを呪って書きたくなくなる。その気持ちを抑えつけて、修正を加え続け、ギャップを少しでも埋めていく作業が執筆だ。その無限の試行がある中で、これが私の本番ですと言えるものを締め切りに提出する。
そう考えると、自分が画面上の文字を、伊藤美誠選手と同じようには見つめられていないからといって自分を責めなくてもいいのかもしれない。アスリートと同じように、ただ毎日今日も練習するぞという気持ちで望めばいいのかもしれない。
と言いつつ、たまには画面上の文字を睨みつけたりしてみようか。
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