Fumio Sasaki's Blog, page 9

March 2, 2019

フィリピン留学 ドゥマゲテでの2ヶ月② 〜英語力の変化〜佐々木典士

悔しい思いをたくさんしてきた

 


2ヶ月のフィリピン留学で、英語力にどれぐらい変化があったか書いておこうと思う。ぼくは高校までは受験英語はできた方だと思うけど、大学に入ってからはぜんぜん真面目にやらなくなり、かなり最近までほとんど手がつけられていない状態だった。


 


ところが、今は本が翻訳されて世界中の読者から英語で感想が来る。そして海外のエージェントや、取材をしてくるメディアの人と英語でメールのやり取りをするようになった。書いたり読んだりするのは今の時代ネットの検索に時間をかければできるが、話すのは全然ダメなまま。典型的な日本人の英語問題を抱えていた。


 


北欧のかなり有名なテレビ番組から出演依頼があったこともあった。skypeで面接のようなことをされたのだが、英語では満足に自分のアイデアを話せないので結局話は流れた。NYや、ドバイなどにも呼んでもらう機会もあった。そういうときは通訳がいるので問題はないが、気まずい時間を過ごすことも多かった。お世話になった人にも気持ちを伝えることができない。悔しいことがたくさんあったのだ。


 


そして「ぼくたちは習慣で、できている。」を書くにあたって、英語の勉強を習慣にしようと思いたち、車の中で英語を聞いたり、単語帳をまた眺め始めた。毎日続けてはいたが、大きな変化を感じられるはずもなく、いつまで初心者向けの教材をやらなくてはいけないのかと度々やる気を失いもした。そしてついに長年の課題に正面から取り組みたいと思い、フィリピン留学を決意する。もうこれでダメだったら諦めて、他のことに集中しようと思った。


死刑台に登るような気持ちで

 


入学した初日に15年振りにTOEICを受ける。結果は690点。思ったより良かった。でも3分の1ぐらいは当てずっぽうで答えたのでその日はカンがよかったんだと思う。英語のメールのやり取りだけはよくしているので、そういう類の例題はよく解けた。


 


前にも書いたとおり、留学する直前はとても気が重かった。恥をかき、もどかしい時間を過ごさなければいけないことがわかり切っていたからだ。ぼくの通っていた学校では生徒の部屋に先生が訪れるスタイル。最初の授業は、ネイティブの先生とのフリーカンバセーションだった。彼は肌の黒いアメリカ人ですごく優しいのだが、話したことがないとちょっと怖い。彼が来るのを椅子に座って待っている間、死刑台に登るような気持ちはこのことかと思った。これからネイティブスピーカーと50分間2人きりで話をする。そんな経験は今までに一度もない。言いたいことの100分の1も言えず、彼を失望させ、きまずい時間が流れる。そんな妄想を思わずしてしまう。


 


もちろんそれは杞憂だった。話のできない日本人と話をすることは彼にとっては日常茶飯事のことなので、とても紳士的に優しく話してくれる。ぼくは日常会話なら、聞く分には8割、9割は内容がわかる。しかしやはり言葉が出てこない。そして時間の経過のなんと長いことか、もう50分近く経っただろうと時計を見ると、25分しか経っていなかった。授業が終わったときに感じたのは、ほとんど話を聞いているだけしかできないという失望と、それでも言っていることは理解できたという安堵と。


脳のトンネル工事

 


ぼくは1日5時間のマンツーマンの授業を取っていたが、最初の3日間は1日が恐ろしく長かった。フィリピン人の先生はもちろん日本語はわからないので、文法の授業もすべて英語。1日中英語に触れていると、右脳の奥、こめかみの上側あたりをずっと拳でグリグリされている感触がした。脳の今まで使っていなかった部分を、急遽トンネル工事しますね! という感じだ。1日が終わるとヘトヘトで、数日中は身体中が傷んだ。パワーナップを取れば回復するはずなのだが、頭の中で有象無象の英語がぐるぐるまわってそれもできない。


 


1週間してだいぶ慣れ、一ヶ月経つ頃には授業を受けることにも、別の国に済むことにも完全に慣れた。話すのことには相変わらず驚くほどの変化はないが、徐々に態度の方に変化が現れてきた。


 


フィリピン人の先生は幼稚園の頃から学校の授業はすべて英語で受けてきたという人が多い。(もちろんすべての家庭がそういう教育を受けられるわけではないそうで、人による。しかし、フィリピンではテレビも新聞も、飛行機のアナウンスなどもすべて英語、映画も字幕はない。おばあちゃんに道を聞いても英語で答えてくれたこともあった)


 


日本人の悲しい性だと思うが、英語が話せないことに申し訳なささを感じる。学校の先生は学生だったり、20代の人が多いのだがキャリアも経験も何もかもこれからという彼らに対して「英語が話せない」というたったひとつの要素だけでどうしても引け目を感じてしまう。しかし、それにも一ヶ月経つ頃には慣れた。確かにまだ満足に話せない、しかしそれがどうしたと。できないこと自体に慣れて、不思議な自信がついてきたのだ。とにかく堂々としていようと思った。


 


同時に、言葉を話す以外の大事なこともたくさん学ぶ。フィリピン人の先生は明るい人が多い、彼ら、彼女たちの笑顔はいくら言葉を尽くしても表現ができない。日本人の学生もそうで、英語力にかかわらずフレンドリーに懸命に話そうとする人もまた先生を元気づけている。たとえば日本語がどんなに拙かろうと、笑顔で懸命にコミュニケーションを取ってこようとする外国人がいれば、その人は好かれるのではないだろうか。そして、この分野は英語以上にぼくは苦手なのだった。


「Hello」も言えてなかった!

 


発音は徹底的に直された。「Hello」という単語を何度も何度も言わされたことがあったのだが、結局満足はしてくれなかった。今までは単に文脈と類推で伝わっていただけなのだ。しかしこの練習はとても役に立った。「L」と「R」、「V」と「B」とか日本人には同じにしか聞こえないものが、別に聞こえるようになってきた。洋楽を聞いていても、歌詞や単語の意味はわからなくてもそれが「L」の発音だなとか「th」だなというのはわかるようになってきた。自分が発音する際に差をつけられるようになると、聞くときにも把握しやすくなってくる。


 


そして会話。まだ日常会話程度しかできないが、時に大きな飛躍を感じたこともあった。今までは少なくとも「日本語」→「英語」翻訳を頭でしていたのだが、簡単な内容なら日本語を介さずに話せること増えてきた。また、今までは言おうとする文章全体を頭の中で作ってから、話し始めていたのが、言いたいことを言えるかどうかの確信もないまま、とにかく話し始めることもできるようになった。英語の文章は主語→述語がまず来てその説明が来るので、大事なことを先に言ってしまえば後からどんどん付け足しもできるのだ。


英語でエッセイを書く

 


そしてぼくは文法の先生に、毎日英語でエッセイを書く宿題を出された。いずれできるようになりたいと思っていたことだが、いきなり取り組まねばならないとは……。書くことは先にも言ったように時間をかけてググればなんとかできる。そして最初のエッセイ。日本語であれば10分でかけるようなエッセイを5~6時間かけて作ったと思う。しかもクオリティは日本語の10分の1ぐらいだと思う。エッセイのアイデアや、構成を練ったりする作業は日本語と同じなのでこの辺は得意だったと思う。


 


このタフな宿題のために、最初は膨大な時間を費やした。他の学生さんとコミュニケーションする時間も取れず、相当な負担に感じていた。途中からは、2日に1つのエッセイを書くだけになり、結局は2ヶ月で25本の英語のエッセイを書いた。表現力自体はほとんど変わっていないが、書く時間が大幅に短くなってきた。5時間かかっていたようなものが2時間ぐらいで書けるようになってきた。そして、これはメールの返信をするときにも役立った。英語のメールを返信するとなると、骨の折れる作業だったのでいつも伸び伸びにしていたのだが、メールぐらいならすぐに返信できるようになった。そして何より、いろいろ間違っていてもいいや、送ってしまえ! と思えていることが大きいと思う。


言葉よりも深い場所で

 


もちろん本人の心がけもあるが、2ヶ月ぐらいでは英語は劇的には変わらないと思う。しかし思いがけないこともいろいろあった。高校の友人が、アメリカの大学へ行ったとき夢を英語で見ていると聞いたとき驚いたことがあったが、自分も同じ経験を何回かした。頭の中にまさに今英語の回路ができようとしているようだ。先生たちともメッセンジャーを使って、たくさんのやり取りができるようになり、これがいちばん勉強になっているかもしれない(もちろんたくさん間違っている)。


 


フィリピン留学の魅力は、値段の安さやマリンスポーツなどの楽しみもあるが、なんと言っても先生たちのホスピタリティにあるのだと思う。語学を身につけるには、恋人を作ることがいちばんいいというのはよく言われる話だが、明るく魅力的な先生に教えてもらって、それを追体験したと思う。


 


何より大きいのは、英語や外国人に対するアレルギーがぐっと減ったということだ。英文を目にしてもウッという気持ちにはならず、むしろ知らない表現や単語を勉強したいという感じ。


 


今までもゲストハウスなんかで出会った外国人に挨拶したり、話を聞いたりしたいと思っていたのだがなかなかできなかった。日本語が通じない相手と接するときの、あの一瞬息が詰まる感じ。それが英語のレベルとは関係なく、なくなってきた。国によって文化も違えば笑うツボも全然違うと思っていたが、ネイティブの先生ともフィリピンの先生とも同じ感覚で、同じところでよく笑えた。そして合わない人は、たとえ日本語が話せる人同士でも合わないのだ。言葉を使わなくても、そういう感覚はすぐにわかる。


 


帰りの飛行機、マニラの空港で時間をつぶさなくてはいけなかった。留学前は緊張していたカフェでの注文も前より楽だ。「このメニューの名前の意味は、濃いコーヒーってこと?」とか今までなら聞きたくても聞かなかったようなことも質問もし、いつもよりリラックスしている。でも、今までだって緊張することはなかった。ぼくたちは違いよりも、共通点の方が多いのだから。言葉よりも深い場所でぼくたちはたくさんコミュニケーションをしている。

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Published on March 02, 2019 21:12

February 24, 2019

フィリピン留学 ドゥマゲテでの2ヶ月①  〜命の適正な軽さ〜佐々木典士

フィリピンの2ヶ月間も、あと一週間で終わろうとしている。ここでの生活にはすでに慣れてしまった。最初の印象を完全に忘れてしまわないうちにまとめて書いておきたい。


ぼくがフィリピンに到着したのは1月6日。ぼくが選んだのはセブでもマニラでもなく、ドゥマゲテという学園都市。街は大きくなく、海も山も楽しめ、ダイバーに有名な島が近くにある。治安も良く、大きな都市が好きではないぼくにはぴったりの場所。


 


到着したその日は本当に暑かった。書類提出のために、証明写真が必要なのだが、メガネをかけているものはNGだそうで、知らない街に写真を撮りに早速でかける。ほんの数km散策しただけでTシャツにはびっしょり汗をかき、熱中症になりそうな暑い日だった。


 


初めて見る街は何もかもが新鮮。ぼくは車やバイクが好きなので、乗り物からその国を読み解くのが好きだ。


庶民の足は、トライシクル。


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日本製の125ccの小さなバイクを改造した乗り物で、最大で8人も乗せる。


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とにかくいろんな場面でこれでいいんだな、と思わされる


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日本なら通勤に使われるだけの乗り物に、生きてるままの豚をくくりつけたり、豚の丸焼きを運んだり。


 


日本のタクシーのように走っているものを止め、行き先があえば乗せてくれるし、そうでなければ断られる。料金は近所なら大体10ペソ(約20円)で格安。


 


そして日本の中古軽トラも、バスとして大活躍。排気量660ccの軽トラ、そのパワーは日本では隠されていると感じる。


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デコトラ的に軽トラをカスタムするのが流行のよう。ミラーが左右10個ずつついていたり、フロントガラスはほとんど飾りで見えなかったり、車検もきっとないのだろう。


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ここからさらに乗り、合計15人乗った!


 


そして、庶民が日常的に使っているのがバイク。3人乗りは当たり前で、こちらも鶏を脇に抱えたまま走ったり、赤ん坊も抱きかかえて乗ってる。セブなどの都市ではみんなヘルメットをかぶっていたが、ほとんどの人がノーヘル。最初は面食らったが、すぐに自分も3人乗りで同じことをするようになった。


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信号はなくても、なぜかなんとかなるし、運転が従うだけのものでなくなり楽しい。


 


日本ならすべて違法だ。軽トラの荷台に人が乗るのもダメだし、軽トラでモバイルハウスを作ろうにも厳密なサイズに合わせて作らなければならない。もちろん安全性に配慮してのことだと思うが、利便性や快適性は失われている。


 


「イージーライダー」や「モーターサイクル・ダイアリーズ」などノーヘルでバイクを疾走するたくさんの映画を見て憧れてきた。そして自分も同じことをしてみる。ノーヘルで海沿いや山間を走ることの、なんと気持ちのよいことか。安全を気にしていては決して手に入らない喜びを得る。


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フィリピンの平均年齢は23歳で、人口構造は日本とは真逆のきれいなピラミッド状になっている。街でもほとんど老人をみかけない。多くの女性が若いうちに多くの子供を持つそうだ。そのせいか、人の命が適正な軽さで扱われていると感じる。


 


シキホールという島では、滝坪へジャンプしたり、20mの崖からの飛び降りたり。


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日本なら危険だということで、全部やらせてくれないのではないか。正しい自己責任の形がここにあるような気がする。日本の公共施設は、禁止事項の張り紙だらけだ。


 


日本のように、1人の子供を育てるのに2000万かかるとかなんとか言う話になると、子供はたくさん持てなくなる。そんなコストや手間暇をかけてようやくそこまで育ったのだから、1人の命は必然的に重く、貴重になる。すると危険は排除した方がいいだろうし、何か損害を与えてしまったときの補償も莫大になるしで、必然的にルールは厳重化される。


 


なるべく安全で快適な環境で、

そして息苦しく生きざるを得なくなる。


 


もちろんフィリピンは発展している最中の国で問題だらけだ。たとえばここには火災保険がないそうで、ぼくの学校でも生徒は火を使った調理は許されていない。病院代は庶民にとっては高いから、病気をしてもただ我慢する人も多いと聞いた。インフラだってガタガタだ。


 


しかし、人々がなんと自由に生きていることか。ネットを通して見る日本は、罵り合いの煉獄だ。ここはそうではない。あなたが私に少々の迷惑をかけても文句は言わない。だから私が何か失敗しても大目に見てほしい。そんなおおらかさがある。


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とにかく何をしたってガタガタ言われないのが心地よい。


 


ぼくは、人生の大きな仕事はもうやり終えたような気がすることがある。すると捨て鉢になって、あまり命を大事にしなくなってリスクがどんどん取れるようになった。そうすることで見られた新しい風景がたくさんある。


 


ここにはそんな、少々の安全性と引き換えにした充実した生が当たり前にある。

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Published on February 24, 2019 18:46

February 23, 2019

他人のSNSを信用しない佐々木典士

昨年の12月にバイクの免許を取るべく、教習所に通いつめた。新しい経験はいつも刺激的。その頃からtwitterを見なくなった。(もともとFacebookはあんまり使っていない)以前からフォローは0にしていて、リストでフォローを管理していたのだがそれもすべて外した。ここのところは「最近あの人どうしているかな?」と思ったときに検索して見るようにしている。


キャンプしているときとか、旅行しているときとか、楽しく充実しているときにはSNSを見ない。このことには以前から気がついていた。時間的な余裕がないから見ないというよりも、見る必要がないという感じ。この状態を「経験がSNSを追い抜く」と呼んでいる。そして年明けからのフィリピン留学。ここのところ、ずっと経験がSNSを追い抜いている。


気の合う友達と夕食を共にしているときに、ネガティブなことを書き込んで他人を非難しようとは思わない。一方で、楽しい旅行をしたり、貴重な風景を目にしている時には、たくさんSNSに投稿したくなる。しかし、人の1日はSNSに投稿しているような単純なものではないと思う。


たとえばぼくのフィリピンの1日は目まぐるしい。ある日の授業で、簡単な英文すらブロークンでしか言えず、凹まされる。その次の授業では大好きなフィリピンの先生と英語で、それ以上に、共通する人間同士の感覚で通じ合えたような気がして心の底から嬉しくなる。


そうして機嫌よく授業を終えたその日、よく行くスーパーへの通り道で、犬が腹をさらして倒れ死んでいるのを見かけた。フィリピンの公衆衛生はそこまで行き届いていない。次の日またその道を通る。犬の亡骸はまだそこにあり、顔には虫がたかり、腹は前の日よりもガスで膨らんでいた。


フィリピンではバイクで長距離を爆走し、美しい山や海の風景に心打たれる。そこにいるかわいい動物の写真を撮り、その風景を誰かにシェアしたくなる。しかし、その風景を見るまでに、ロードキルでミンチになった何体もの動物を乗り越えている。


ぼくはこのことをSNSでつぶやこうとは思わない。こういうことはSNSというよりもブルースに属するようなものではないか。


ぼくはネガティブなことはなるべくSNSにはつぶやきたくないと思う、人にネガティブなムードを与えたくないからだ。自分が前向きなときにネガティブなムードに引きずりこまれるのもごめんこうむりたい。かといって人のSNSでポジティブなものばかり見せられても、嫉妬や羨望でやる気が損なわれることがある。しかし、ポジティブなことの背面にももっと複雑で、感情の起伏豊かな1日が本当はあるはずなのだ。人の1日は、SNSで挙げているような要約ではない。


ぼくがSNSを見る基準は、それを見ることでやる気が出るかどうか。(國分功一郎さんがスピノザについて言う、活動能力の増大が起こるかどうか)。ぼくには大好きな尊敬している方たちがたくさんいて、刺激を受けてやる気が出る場合もあれば、ときどきその人達のスピードに追いつけなくなって、置いてけぼりを食ったような気分になることがある。そんなときは少し距離を取る。


ぼくは今後もネガティブなことはつぶやこうとは思わない。しかし、もしその言葉でやる気が損なわれるなら、どうぞぼくのSNSから距離を取ってほしい。ぼくもそうしている。ほとんどの人の経験がSNSを追い抜き、各自勝手につぶやいているだけで、お互い見てもいない。そんな状態がもしかしたら理想ではないか。

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Published on February 23, 2019 17:19

February 17, 2019

エンプティ・スペース 003 「美味しい」の意味沼畑直樹Empty Space Naoki Numahata

 


2016年12月


 


昼。西の窓から射し込む陽が強く、それが私に師走の感情を呼び起こす。


この家ではいつも、冬はテーブルに座ると眩しい。


そして、寒さゆえ、毎日お湯を沸かすようになる。


温かいお茶のため。


音が知らせてくれるポットではないので、他のことに集中していると湯があふれ出す。


でも、それを拭けば台が綺麗になるからいい。


 


ご飯を炊いて、鍋で出汁をとる。


去年は昆布と鰹節からとっていたけれど、紙パックを使ってみた。


茅乃舎という出汁のパックだが、ちょっとお湯で煮出しただけで出汁がしっかり出る。


この出汁に鶏肉と大根をささっと入れて、お昼ご飯は完成。


夏は和食からタパス的な料理に切り替えていて、存分に楽しんでいた。


ワインにスペインバル。特にいろいろな貝のつまみとワインを楽しんだ。


それが、秋が来て、冬の到来を感じると、和食モードに再び戻った。


 


きっかけは、わかっている。


初女さんだ。


 


この年(2016年)の2月に、94歳で亡くなった佐藤初女さん。


青森で悩みを抱えた人々に対して、自分で握ったおにぎりでもてなすという活動を続けた人で、私は昔、取材で訪れたことがあった。


岩木山麓の、「森のイスキア」と呼ばれる施設に、初女さんはいた。


「初女さんが握るおにぎりは、なぜか美味しい」


というのが、文献等で知った評判だった。


私は勝手に、彼女の味付けも含め、「美味しいおにぎりに出会える」という姿勢でいた。


本当に私は馬鹿者だった。


期待を胸に食べた彼女のおにぎりは、いたって「普通のおにぎり」だった。


 


美味しい、けど、普通のおにぎり。


 


初女さんのイスキアを訪れる人々は、救いを求めている。人生の際、ギリギリのところに立っていて、その先が見えない人々。


そんな人々が、思い込めて握られたご飯を食べる。


すると、そのおにぎりは、普通ではなくなる。


味付けの美味しい具が入っているとか、海苔がまかれているということではない。


また、初女さんが握ることで科学的に変化を起こし味わいが増すということでもない。


私は抱いていたのは、そんな神秘めいた期待で、批難されるべき態度だが、そのときは本当にそう思っていた。


 


おそらく、その取材から13年以上は経っている。


私は、ふと初女さんのことを思い出し、自分にも娘にも、思いを込めて作ったご飯を作りたいと思った。


初女さんの言うように、素材に感謝しながら切り、煮て、お米を握る。


それで、科学的な変化が起こるわけではない。


でも、そのプロセスが大事なのだと、今ならわかる。


誰かのために作るということ。それが自分であってもいい。


 


鶏肉と大根の出汁煮は、美味しかった。


美味しいという言葉に、いろいろな意味があるという意味で。

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Published on February 17, 2019 18:40

January 30, 2019

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」増補版を発売!!

「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」文庫版が、ちくま文庫より2月7日発売‼

単行本をボリュームアップした【増補版】となっております。


いつものように、こちらのブログでどこよりも詳しい内容紹介を。


1 文章をすっきりと読みやすく改訂!

単行本には文章がまどろっこしいというご批判がたくさんありまして。

「文章はミニマリストじゃない」ってやつな! しばらくはこれでいいと思っていたんですが、今見ると確かにアラが気になったり、下手だなと思うところもあったのでなるべく読みやすくしたつもりです。情報として古くなった部分も少し直しました。再読するならこちらをぜひ!


2 巻頭カラーの4組のミニマリストの「3年後の写真」を追加。

なんとあの肘さんの部屋にベッドが鎮座! そしてなぜか異様にエロいベッド‼ 一見の価値ありです笑。


3 「モノを手放す方法最終リスト」に10のルールを追加し、合計80のルールに。

単行本ではすっかり抜けていた、手放す方法としてのメルカリや、本を書いた後に気づいた視点を盛り込みました。


追加した10のルールはこんな感じです。


・片付けを習慣にする

・モノを社員として考える

・とにかくおすすめなのは「メルカリ」

・ 大事にできるか、管理できるか考える

・「欲しい」と「嬉しい」は別

・ 防災用品だけは「いつか」に当てはまらない

・環境への配慮を忘れない

・家族のモノをどうしたらいいか?

・得意な人が手放す

・「ある」メリットが上回れば増やす


4 文庫版あとがきは「ミニマリズムの後で」と題しました。


当時まったく無名の著者が書いたこの本は、3年間でなんと23ヶ国語へ翻訳され、世界累計で40万部以上になりました。ミニマリズムの爆発的な流行と、それからの3年の間に感じたことをまとめました。ミニマリズムについて、客観的に振り返るような内容になっています。


5 解説はやまさんこと、やまぐちせいこさんに。


単行本の「ぼくモノ」で抜けていたのが、家族でモノと向き合うというお話です。イベントでもいちばん多いのが「家族のモノをどうしたらいいか?」という質問でした。

またもうひとつ抜けている視点として「ミニマリストと発達障害」という視点があると思っています。視覚情報などが過敏なことで、モノがたくさんあることがストレスになる。モノの管理が苦手で、どうしても散らかしたり忘れ物をしたりしてしまう。そういった人にとって、ミニマリストのライフスタイルは非常に効果的だと思っています。その抜けている視点を、当事者の立場からやまさんにバシッと解説していただきます。解説というより、本文の補講としてやまさんにお願いしました!


なお、大人の事情、契約の関係でこちらの電子版は結構先になってしまいます、ごめんなさい。よかったら紙で読んでみてくださいね。本は本棚ごと一度まるごと手放してしまったのですが、その時にいちばんたくさん持っていた文庫が「ちくま文庫」でした。だからとっても光栄で嬉しく思っています。


今のぼくにはもう書けない、コンプレックス丸出しで、それだけに熱く誠実な内容だと思います。日々を過ごすうちに大事なことも忘れてしまいます。自分も何度も読んでいるはずですが、そのたびに大切なものを思い返させてくれる本ですね。ぜひよろしくお願いします!


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Published on January 30, 2019 15:50

January 21, 2019

エンプティ・スペース  002 ウェストコースト 沼畑直樹  Empty Space Naoki Numahata      

ウェストコースト


 


1年前、西伊豆の宿に行った。ミニマリズムを知ったころに、夕陽の見える海岸を探して、行きたいと思いつつも数年が過ぎてしまっていた。


片付いた部屋を抜け出して、西日の路を往く。


 



2017年12月7日


西伊豆を走りたい。と思って数年が経った。


2014年のクロアチア・アドリア海の旅で、夕陽が海岸や街を照らす「西海岸」に惹かれたのがきっかけだ。


世界中のどの場所でも、西海岸は街が夕陽に照らされる。


ゆったりと流れる時間は、古代の人々にとっては近いものであって、都会の人にとっては怠惰なもの。


部屋を片付け、シンプルな状態になると、そのゆったりとした時間が家の中にあらわれる。


それが怠惰ではなくて、あくまで人間としてノーマルな状態だと信じたいので、本当は西海岸が日常であってほしいと思う。


観光地のゆったりした夕方ではなくて、いつもの夕方。


でも、吉祥寺という街は東京の武蔵野台地のど真ん中にあり、街を見下ろす丘はない。高いビルも少なく、自分の家のある4階建ての4階がまわりを見渡しても最上階。屋上にのぼれば富士山と夕景は望めるが、商店街である地上を歩いていると夕方を感じる瞬間は少ない(季節によっては、道の向こうに陽が沈む)。


 


夕陽に飢えてしまった私は、日本での西海岸はどこだろうかと地図に向き合っていた。


クロアチアの場合、南北に海岸線が伸びていて、車で海岸線沿いの道路を移動していても、ずっと西陽が沈まない。


東西に海岸線が伸びているところよりも、南北の西海岸を見てみたい。


探すと、能登半島や秋田、山形、瀬戸内海、熊本や長崎と、大陸ではない日本にはいくらでも西海岸がある。自分が今までそこに価値を見出さなかっただけだ。


東京から近い西海岸を探すと、吉祥寺からまっすぐ南下した鎌倉からさらに進んだ、三浦半島。


そして、伊豆半島にあった。


三浦半島は比較的近いので、東京に住んでいると週末に訪れることは多い。ただ、宿泊するほどの距離ではなく、夕暮れの前には出発して、渋滞に巻き込まれないように帰るのが常だ。


宿泊としては、やはり箱根や伊豆になる。


 


金曜日の晴れた朝に吉祥寺を出発し、家族を乗せて沼津経由で海岸線を南下。道はしっかり海岸線に沿っていて、淡島という小さな島を過ぎたあたりから海岸線は北を向く。


11月中旬の2時から3時ごろだと、陽はもう傾きかけていて、北を向いた海岸線からも少し黄色がかった陽が見える。


その先には大瀬崎があり、小さな半島の真ん中に神池という池がある。


妻が京都の伏見神社で「気に押される」という不思議な体験をしたあとだったので、パワースポット的な香りのする神池を眺めてみたが、私はまったく気を感じなかった。


池は森の中にあり、そこから細い道を抜けて、西側の海岸線に出てみる。


 


観光客もほとんどいない11月の金曜日。


私と妻と子どもと、妻の母の4人で、西日をいっぱいに受けた海岸線に立った。


陽は薄い雲に隠れていたが、求めていた景色そのもの。


 


それから、地図上での海岸線を走ったが、最初は海側が木に隠れていることが多く、「海岸線を走る」という感じでもなかった。


少しずつ、道は海岸線を走るようになる。


ときどき、眩しい。


 


西伊豆の小さな温泉街にある宿は、当然ながら夕景を見下ろす丘の上にあった。


選ぶ際の条件だからだ。


ロビーからは駿河湾と夕陽。


部屋の露天風呂から、西の海がきらきらと輝いているのが見えた。


 


その夜、9時ごろに修善寺に着く予定の姉を迎えに、車で一人東へ向かった。


そこから修善寺に抜けるためには、山を越えなくてはならない。


真っ暗な闇の山道を抜けるのは不安だったが、安心材料はひとつあった。


「ゆっくり走る」ことだ。


 


今回の西海岸のドライブでも、私は後ろの車に道をゆずり、前にも後ろにも車がない状態にして、ゆっくりとワインディングを走った。


安全運転よりも安全というほどの、のどかなスピードでウィンドウ越しの風景は流れていく。


まるで映画のワンシーンのような動きをする風景を時折眺めながら、急ぐことなく道を往く。


夜の山道であってもそれは同じだから、時折やってくる後ろの車を先にいかせて、ゆっくりと漆黒の山道を走った。


 


下手をすると、ゆっくりすぎて、山の「気」に襲われたかもしれない。


怖くなって、アクセルを踏み込んだかもしれない。


だけど、凍結の可能性もなくはない山の道を、飛ばすわけにはいかない。


どんなに恐ろしい山道でも、ゆったり往く。


 


正直、時折ざわっとしたが、私の「ゆったり」が、山の「気」に勝った。


 


翌日の朝、修善寺に行くために、また同じ山道を越えた。


「夕陽を浴びる西海岸を、ゆったりと走る」


それを目的とした旅は、その山の先の峠を越えたときに終わった。


あとは伊豆の真ん中を走り、熱海から東海岸をゆっくり走り抜けていくだけ。


海岸線を南下しつつ帰れば、もっと楽しめたのに…とも思ったが、修善寺の誘惑には勝てなかった。


 

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Published on January 21, 2019 18:05

エンプティ・スペース  002 ウェストコースト 沼畑直樹  Empty Space Naoki Numahata      

ウェストコースト


 


1年前、西伊豆の宿に行った。ミニマリズムを知ったころに、夕陽の見える海岸を探して、行きたいと思いつつも数年が過ぎてしまっていた。


片付いた部屋を抜け出して、西日の路を往く。


 



2017年12月7日


西伊豆を走りたい。と思って数年が経った。


2014年のクロアチア・アドリア海の旅で、夕陽が海岸や街を照らす「西海岸」に惹かれたのがきっかけだ。


世界中のどの場所でも、西海岸は街が夕陽に照らされる。


ゆったりと流れる時間は、古代の人々にとっては近いものであって、都会の人にとっては怠惰なもの。


部屋を片付け、シンプルな状態になると、そのゆったりとした時間が家の中にあらわれる。


それが怠惰ではなくて、あくまで人間としてノーマルな状態だと信じたいので、本当は西海岸が日常であってほしいと思う。


観光地のゆったりした夕方ではなくて、いつもの夕方。


でも、吉祥寺という街は東京の武蔵野台地のど真ん中にあり、街を見下ろす丘はない。高いビルも少なく、自分の家のある4階建ての4階がまわりを見渡しても最上階。屋上にのぼれば富士山と夕景は望めるが、商店街である地上を歩いていると夕方を感じる瞬間は少ない(季節によっては、道の向こうに陽が沈む)。


 


夕陽に飢えてしまった私は、日本での西海岸はどこだろうかと地図に向き合っていた。


クロアチアの場合、南北に海岸線が伸びていて、車で海岸線沿いの道路を移動していても、ずっと西陽が沈まない。


東西に海岸線が伸びているところよりも、南北の西海岸を見てみたい。


探すと、能登半島や秋田、山形、瀬戸内海、熊本や長崎と、大陸ではない日本にはいくらでも西海岸がある。自分が今までそこに価値を見出さなかっただけだ。


東京から近い西海岸を探すと、吉祥寺からまっすぐ南下した鎌倉からさらに進んだ、三浦半島。


そして、伊豆半島にあった。


三浦半島は比較的近いので、東京に住んでいると週末に訪れることは多い。ただ、宿泊するほどの距離ではなく、夕暮れの前には出発して、渋滞に巻き込まれないように帰るのが常だ。


宿泊としては、やはり箱根や伊豆になる。


 


金曜日の晴れた朝に吉祥寺を出発し、家族を乗せて沼津経由で海岸線を南下。道はしっかり海岸線に沿っていて、淡島という小さな島を過ぎたあたりから海岸線は北を向く。


11月中旬の2時から3時ごろだと、陽はもう傾きかけていて、北を向いた海岸線からも少し黄色がかった陽が見える。


その先には大瀬崎があり、小さな半島の真ん中に神池という池がある。


妻が京都の伏見神社で「気に押される」という不思議な体験をしたあとだったので、パワースポット的な香りのする神池を眺めてみたが、私はまったく気を感じなかった。


池は森の中にあり、そこから細い道を抜けて、西側の海岸線に出てみる。


 


観光客もほとんどいない11月の金曜日。


私と妻と子どもと、妻の母の4人で、西日をいっぱいに受けた海岸線に立った。


陽は薄い雲に隠れていたが、求めていた景色そのもの。


 


それから、地図上での海岸線を走ったが、最初は海側が木に隠れていることが多く、「海岸線を走る」という感じでもなかった。


少しずつ、道は海岸線を走るようになる。


ときどき、眩しい。


 


西伊豆の小さな温泉街にある宿は、当然ながら夕景を見下ろす丘の上にあった。


選ぶ際の条件だからだ。


ロビーからは駿河湾と夕陽。


部屋の露天風呂から、西の海がきらきらと輝いているのが見えた。


 


その夜、9時ごろに修善寺に着く予定の姉を迎えに、車で一人東へ向かった。


そこから修善寺に抜けるためには、山を越えなくてはならない。


真っ暗な闇の山道を抜けるのは不安だったが、安心材料はひとつあった。


「ゆっくり走る」ことだ。


 


今回の西海岸のドライブでも、私は後ろの車に道をゆずり、前にも後ろにも車がない状態にして、ゆっくりとワインディングを走った。


安全運転よりも安全というほどの、のどかなスピードでウィンドウ越しの風景は流れていく。


まるで映画のワンシーンのような動きをする風景を時折眺めながら、急ぐことなく道を往く。


夜の山道であってもそれは同じだから、時折やってくる後ろの車を先にいかせて、ゆっくりと漆黒の山道を走った。


 


下手をすると、ゆっくりすぎて、山の「気」に襲われたかもしれない。


怖くなって、アクセルを踏み込んだかもしれない。


だけど、凍結の可能性もなくはない山の道を、飛ばすわけにはいかない。


どんなに恐ろしい山道でも、ゆったり往く。


 


正直、時折ざわっとしたが、私の「ゆったり」が、山の「気」に勝った。


 


翌日の朝、修善寺に行くために、また同じ山道を越えた。


「夕陽を浴びる西海岸を、ゆったりと走る」


それを目的とした旅は、その山の先の峠を越えたときに終わった。


あとは伊豆の真ん中を走り、熱海から東海岸をゆっくり走り抜けていくだけ。


海岸線を南下しつつ帰れば、もっと楽しめたのに…とも思ったが、修善寺の誘惑には勝てなかった。


 

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Published on January 21, 2019 18:05

January 8, 2019

エンプティ・スペース  001 沼畑直樹  Empty Space Naoki Numahata      

 


2008年ごろに雑誌で見た、ある老夫婦のシンプルな部屋。ベッドと机以外はしっかりと片付けられていて、狭い平屋のその空間は「静謐」という言葉がよく似合った。


以来、ふとしたときにその写真を見たくなり、目にするたびに気分がすっとした。


そして雑誌を閉じると、目の前には乱雑にモノが積まれた部屋の風景。


いつかあの写真のような部屋にしたいと願いつつ、数年後に行った掃除によって、それは達成された。


エンプティ・スペース。


日本語にして、空間。


 


すっきりと片付いた部屋で、その空間を楽しむようになった。モノだけでなく、習慣や考え方、生き方も含めて、このシンプルな生き方を表現できる言葉はないかと本屋を歩き、結局アメリカのサイトでMinimalismという言葉に出会う。


今思えば、断捨離をアメリカ風に解釈しただけだったのかもしれないが、そこに少し野性味が加わったような雰囲気が当時はあった。


個人的な印象としては、その野性味が抜けきることはなく、言葉のイメージの中には、森の中や丘の上がある。


自分の好きなモノたちから離れ、一人森の中でキャンプもしくは放浪するという雰囲気がアメリカのミニマリストが放った野性味。


古くはホーボーと呼ばれ、後にビート・ジェネレーション、ヒッピーと繋がったアメリカ独自の野性味。


賑やかさというノイズを遮断し、ミニマイズし、静けさを愛する。


空という屋根と木々もしくは空気に囲まれた空間に佇む。


それがアメリカのミニマリズムのひとつの到達点で、その後は「部屋が片付いていてきれい」「究極のインテリア」という部分で語られることが多くなった。少しリッチなイメージが付きまとい、野性味は薄れていった。


 


当時はアメリカにおけるミニマリストの実情は知らず、ただミニマリズムという言葉の響きだけを得て、2008年に出会ったあの夫妻の部屋の写真を重ね、個人的な解釈を「ミニマリストという生き方」にただ加えていった。


数年が経ち、「あの夫妻の部屋の写真に惹かれたのはなぜなのか」という問いは続き、探した答えの先には結局、日本人として、茅屋、茶室という言葉に行き着く。


そこは、あの野性味と部屋が、同じイメージとしてどうして繋がるのかという答えでもあった。


 


茅屋は、部屋の中のようでありながら外。


 


すぐに片付けられるテントのような部屋。屋根と壁に囲まれただけの空間。エンプティ・スペース。


部屋とは、自分の落ち着くべき、便利であるべき空間なのに、すぐに壊されてしまうような仮の部屋。


それが茅屋であり茶室で、ミニマリズムの部屋が実現する空間だった。


外という地球の空間に佇む歓びを、部屋にいながらにして感じる空間。


 


だから、言葉は繋がっていく。


森、海、空、間、


あの野性味も、部屋の中も繋がっている。


エンプティ・スペースは、外であり内であるということ。


 


空間に佇み、  路に佇む。


部屋のオレンジのライトと、   焚き火のあかり。


射し込む夕陽と、  伊豆の夕景。


電気を消した部屋の静けさと、   テントの夜。


 


想像力を使わざるをえない、エンプティ・スペースの日々を書き綴る。


 


 


2008年、いらざるもののない家


 


少しずつ書きためたものを『エンプティ・スペース』という題のもとに、このサイトで公開していく。


その前に、2008年のその雑誌をもう一度めくってみたい。


このエンプティ・スペースの文章を書きながら、どうしてもまた読みたくなって、捨ててしまったカーサ・ブルータス2月号を再度購入した。


092ページ、タイトルは、『いらざるもののない家』。


 


平屋の縁側に座る上小沢夫妻が右ページ、左ページには趣味室。椅子、テーブル、ピアノ。


飾り立てるものは何もなく、床にも何も置かれていない。


記事によると、夫妻はその記事から48年前、建築家広瀬鎌二の「無駄も媚びもない合理的な空間」に共感して、予算を最小限にして設計を依頼した。


当初は雨漏りなどがあったが、住み続けることを決意した二人は改修を続け、「無駄と思われる壁や棚、家具などを容赦なく取り払って空間を整理」した。すると、家の骨格が剥き出しになってきて、より美しくなったという。


モットーは「いらざるものは、入れない」で、「モノは最小限にして、上質でなければならず」「適度な緊張感と知的な向上心をもって生きる」だという。


 


裸の骨格の家、夫妻はそれを上質と言う。


 


これは、より美しく飾り、インテリアを美しくして、立派な家が上質であるという考えと、真反対にある。


そして、「空間」に美を感じるタオイズムと禅の思想に酷く近い。


タオイズムには、美の物質で飾ることで、ゲストの想像力を削いでしまってはいけないという考え方があるが、夫妻も以前に欲しかったモンドリアンの絵を断念したという。理由は、「空間を限定したくなかった。モノがないことで精神の自由を得るのです。豊かさとは、モノが豊潤にあふれていることではなく、心の満たされた状態のこと」だから。


この家の写真と出会って10年が経ち、ミニマリストのように生きることも、豪華な人生を生きることも、どちらでもいいと思っている。ただ、常に個人的な、自分はどうするかというだけの話だ。なので、競争に参加したくないものの、競争に参加し、豪華な人生を送る人も素晴らしい人生だと思う。「お金を稼ぐことに成功した人が成功者である」という考え方も良いし、ただ私は一切共鳴することなく、経歴や実績、所有しているもので、人を判断しない。


目の前のあなたは、ただの同じサピエンス。(パワハラ運動と無関係ではないと思う)


無駄と思われる自分の何かを容赦なく取り払うと、ただのサピエンスになる。


テーブルと椅子、美味しい毎日の食事とコーヒーを繰り返す、幸福のサピエンス。


 

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Published on January 08, 2019 21:30

エンプティ・スペース  001 沼畑直樹  Empty Space Naoki Numahata      

 


2008年ごろに雑誌で見た、ある老夫婦のシンプルな部屋。ベッドと机以外はしっかりと片付けられていて、狭い平屋のその空間は「静謐」という言葉がよく似合った。


以来、ふとしたときにその写真を見たくなり、目にするたびに気分がすっとした。


そして雑誌を閉じると、目の前には乱雑にモノが積まれた部屋の風景。


いつかあの写真のような部屋にしたいと願いつつ、数年後に行った掃除によって、それは達成された。


エンプティ・スペース。


日本語にして、空間。


 


すっきりと片付いた部屋で、その空間を楽しむようになった。モノだけでなく、習慣や考え方、生き方も含めて、このシンプルな生き方を表現できる言葉はないかと本屋を歩き、結局アメリカのサイトでMinimalismという言葉に出会う。


今思えば、断捨離をアメリカ風に解釈しただけだったのかもしれないが、そこに少し野性味が加わったような雰囲気が当時はあった。


個人的な印象としては、その野性味が抜けきることはなく、言葉のイメージの中には、森の中や丘の上がある。


自分の好きなモノたちから離れ、一人森の中でキャンプもしくは放浪するという雰囲気がアメリカのミニマリストが放った野性味。


古くはホーボーと呼ばれ、後にビート・ジェネレーション、ヒッピーと繋がったアメリカ独自の野性味。


賑やかさというノイズを遮断し、ミニマイズし、静けさを愛する。


空という屋根と木々もしくは空気に囲まれた空間に佇む。


それがアメリカのミニマリズムのひとつの到達点で、その後は「部屋が片付いていてきれい」「究極のインテリア」という部分で語られることが多くなった。少しリッチなイメージが付きまとい、野性味は薄れていった。


 


当時はアメリカにおけるミニマリストの実情は知らず、ただミニマリズムという言葉の響きだけを得て、2008年に出会ったあの夫妻の部屋の写真を重ね、個人的な解釈を「ミニマリストという生き方」にただ加えていった。


数年が経ち、「あの夫妻の部屋の写真に惹かれたのはなぜなのか」という問いは続き、探した答えの先には結局、日本人として、茅屋、茶室という言葉に行き着く。


そこは、あの野性味と部屋が、同じイメージとしてどうして繋がるのかという答えでもあった。


 


茅屋は、部屋の中のようでありながら外。


 


すぐに片付けられるテントのような部屋。屋根と壁に囲まれただけの空間。エンプティ・スペース。


部屋とは、自分の落ち着くべき、便利であるべき空間なのに、すぐに壊されてしまうような仮の部屋。


それが茅屋であり茶室で、ミニマリズムの部屋が実現する空間だった。


外という地球の空間に佇む歓びを、部屋にいながらにして感じる空間。


 


だから、言葉は繋がっていく。


森、海、空、間、


あの野性味も、部屋の中も繋がっている。


エンプティ・スペースは、外であり内であるということ。


 


空間に佇み、  路に佇む。


部屋のオレンジのライトと、   焚き火のあかり。


射し込む夕陽と、  伊豆の夕景。


電気を消した部屋の静けさと、   テントの夜。


 


想像力を使わざるをえない、エンプティ・スペースの日々を書き綴る。


 


 


2008年、いらざるもののない家


 


少しずつ書きためたものを『エンプティ・スペース』という題のもとに、このサイトで公開していく。


その前に、2008年のその雑誌をもう一度めくってみたい。


このエンプティ・スペースの文章を書きながら、どうしてもまた読みたくなって、捨ててしまったカーサ・ブルータス2月号を再度購入した。


092ページ、タイトルは、『いらざるもののない家』。


 


平屋の縁側に座る上小沢夫妻が右ページ、左ページには趣味室。椅子、テーブル、ピアノ。


飾り立てるものは何もなく、床にも何も置かれていない。


記事によると、夫妻はその記事から48年前、建築家広瀬鎌二の「無駄も媚びもない合理的な空間」に共感して、予算を最小限にして設計を依頼した。


当初は雨漏りなどがあったが、住み続けることを決意した二人は改修を続け、「無駄と思われる壁や棚、家具などを容赦なく取り払って空間を整理」した。すると、家の骨格が剥き出しになってきて、より美しくなったという。


モットーは「いらざるものは、入れない」で、「モノは最小限にして、上質でなければならず」「適度な緊張感と知的な向上心をもって生きる」だという。


 


裸の骨格の家、夫妻はそれを上質と言う。


 


これは、より美しく飾り、インテリアを美しくして、立派な家が上質であるという考えと、真反対にある。


そして、「空間」に美を感じるタオイズムと禅の思想に酷く近い。


タオイズムには、美の物質で飾ることで、ゲストの想像力を削いでしまってはいけないという考え方があるが、夫妻も以前に欲しかったモンドリアンの絵を断念したという。理由は、「空間を限定したくなかった。モノがないことで精神の自由を得るのです。豊かさとは、モノが豊潤にあふれていることではなく、心の満たされた状態のこと」だから。


この家の写真と出会って10年が経ち、ミニマリストのように生きることも、豪華な人生を生きることも、どちらでもいいと思っている。ただ、常に個人的な、自分はどうするかというだけの話だ。なので、競争に参加したくないものの、競争に参加し、豪華な人生を送る人も素晴らしい人生だと思う。「お金を稼ぐことに成功した人が成功者である」という考え方も良いし、ただ私は一切共鳴することなく、経歴や実績、所有しているもので、人を判断しない。


目の前のあなたは、ただの同じサピエンス。(パワハラ運動と無関係ではないと思う)


無駄と思われる自分の何かを容赦なく取り払うと、ただのサピエンスになる。


テーブルと椅子、美味しい毎日の食事とコーヒーを繰り返す、幸福のサピエンス。


 

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Published on January 08, 2019 21:30

エンプティ・スペース  001 沼畑直樹 Empty Space Naoki Numahata      

 


2008年ごろに雑誌で見た、ある老夫婦のシンプルな部屋。ベッドと机以外はしっかりと片付けられていて、狭い平屋のその空間は「静謐」という言葉がよく似合った。


以来、ふとしたときにその写真を見たくなり、目にするたびに気分がすっとした。


そして雑誌を閉じると、目の前には乱雑にモノが積まれた部屋の風景。


いつかあの写真のような部屋にしたいと願いつつ、数年後に行った掃除によって、それは達成された。


エンプティ・スペース。


日本語にして、空間。


 


すっきりと片付いた部屋で、その空間を楽しむようになった。モノだけでなく、習慣や考え方、生き方も含めて、このシンプルな生き方を表現できる言葉はないかと本屋を歩き、結局アメリカのサイトでMinimalismという言葉に出会う。


今思えば、断捨離をアメリカ風に解釈しただけだったのかもしれないが、そこに少し野性味が加わったような雰囲気が当時はあった。


個人的な印象としては、その野性味が抜けきることはなく、言葉のイメージの中には、森の中や丘の上がある。


自分の好きなモノたちから離れ、一人森の中でキャンプもしくは放浪するという雰囲気がアメリカのミニマリストが放った野性味。


古くはホーボーと呼ばれ、後にビート・ジェネレーション、ヒッピーと繋がったアメリカ独自の野性味。


賑やかさというノイズを遮断し、ミニマイズし、静けさを愛する。


空という屋根と木々もしくは空気に囲まれた空間に佇む。


それがアメリカのミニマリズムのひとつの到達点で、その後は「部屋が片付いていてきれい」「究極のインテリア」という部分で語られることが多くなった。少しリッチなイメージが付きまとい、野性味は薄れていった。


 


当時はアメリカにおけるミニマリストの実情は知らず、ただミニマリズムという言葉の響きだけを得て、2008年に出会ったあの夫妻の部屋の写真を重ね、個人的な解釈を「ミニマリストという生き方」にただ加えていった。


数年が経ち、「あの夫妻の部屋の写真に惹かれたのはなぜなのか」という問いは続き、探した答えの先には結局、日本人として、茅屋、茶室という言葉に行き着く。


そこは、あの野性味と部屋が、同じイメージとしてどうして繋がるのかという答えでもあった。


 


茅屋は、部屋の中のようでありながら外。


 


すぐに片付けられるテントのような部屋。屋根と壁に囲まれただけの空間。エンプティ・スペース。


部屋とは、自分の落ち着くべき、便利であるべき空間なのに、すぐに壊されてしまうような仮の部屋。


それが茅屋であり茶室で、ミニマリズムの部屋が実現する空間だった。


外という地球の空間に佇む歓びを、部屋にいながらにして感じる空間。


 


だから、言葉は繋がっていく。


森、海、空、間、


あの野性味も、部屋の中も繋がっている。


エンプティ・スペースは、外であり内であるということ。


 


空間に佇み、  路に佇む。


部屋のオレンジのライトと、   焚き火のあかり。


射し込む夕陽と、  伊豆の夕景。


電気を消した部屋の静けさと、   テントの夜。


 


想像力を使わざるをえない、エンプティ・スペースの日々を書き綴る。


 


 


2008年、いらざるもののない家


 


少しずつ書きためたものを『エンプティ・スペース』という題のもとに、このサイトで公開していく。


その前に、2008年のその雑誌をもう一度めくってみたい。


このエンプティ・スペースの文章を書きながら、どうしてもまた読みたくなって、捨ててしまったカーサ・ブルータス2月号を再度購入した。


092ページ、タイトルは、『いらざるもののない家』。


 


平屋の縁側に座る上小沢夫妻が右ページ、左ページには趣味室。椅子、テーブル、ピアノ。


飾り立てるものは何もなく、床にも何も置かれていない。


記事によると、夫妻はその記事から48年前、建築家広瀬鎌二の「無駄も媚びもない合理的な空間」に共感して、予算を最小限にして設計を依頼した。


当初は雨漏りなどがあったが、住み続けることを決意した二人は改修を続け、「無駄と思われる壁や棚、家具などを容赦なく取り払って空間を整理」した。すると、家の骨格が剥き出しになってきて、より美しくなったという。


モットーは「いらざるものは、入れない」で、「モノは最小限にして、上質でなければならず」「適度な緊張感と知的な向上心をもって生きる」だという。


 


裸の骨格の家、夫妻はそれを上質と言う。


 


これは、より美しく飾り、インテリアを美しくして、立派な家が上質であるという考えと、真反対にある。


そして、「空間」に美を感じるタオイズムと禅の思想に酷く近い。


タオイズムには、美の物質で飾ることで、ゲストの想像力を削いでしまってはいけないという考え方があるが、夫妻も以前に欲しかったモンドリアンの絵を断念したという。理由は、「空間を限定したくなかった。モノがないことで精神の自由を得るのです。豊かさとは、モノが豊潤にあふれていることではなく、心の満たされた状態のこと」だから。


この家の写真と出会って10年が経ち、ミニマリストのように生きることも、豪華な人生を生きることも、どちらでもいいと思っている。ただ、常に個人的な、自分はどうするかというだけの話だ。なので、競争に参加したくないものの、競争に参加し、豪華な人生を送る人も素晴らしい人生だと思う。「お金を稼ぐことに成功した人が成功者である」という考え方も良いし、ただ私は一切共鳴することなく、経歴や実績、所有しているもので、人を判断しない。


目の前のあなたは、ただの同じサピエンス。(パワハラ運動と無関係ではないと思う)


無駄と思われる自分の何かを容赦なく取り払うと、ただのサピエンスになる。


テーブルと椅子、美味しい毎日の食事とコーヒーを繰り返す、幸福のサピエンス。


 

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Published on January 08, 2019 21:30

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Fumio Sasaki
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