Fumio Sasaki's Blog, page 20
November 30, 2017
株式会社「じぶん」 佐々木典士
大抵の悩みは人間関係から来るもの。
働くときもそう。企業に勤めていればなおさら。
嫌な人間とも、なんとかうまくやっていかなければならない。
フリーランスになれば、1人社長になる。とよく言われる。
報連相は自分のなかでだけ行えばいい。
飴と鞭を与えるのは自分。
自分の教育担当者は自分。
自分とうまくやりさえすればいい。
事業がうまくいかなかったら上司のせいではなく自分の責任だ。
ことはそう簡単だろうか?
1人になったらなったで今度は
株式会社「じぶん」に入社するのではないか?
株式会社「じぶん」には大きく「体」と「心」という局がある。
同じフロアの隣同士に並んでおり、兼任している担当者も多い。
ここの連絡が密接でなければ株式会社「じぶん」はうまくまわっていかない。
株式会社「じぶん」の稼ぎ頭、花形である「脳」部の構成を見てみる。
脳部は全体で1,300gで、それを構成するのは何千億個のニューロンとグリア細胞。それぞれの細胞には全ヒトゲノムが入っており、ほとんど大都市のように混み合っているという。ひとつのニューロンは、近隣のニューロンと1万個の接合部を持ち、毎秒何百回と電気パルスを交換している。
脳部だけを見ても、ほとんど地球や宇宙と変わらないような複雑さで組織化されている。こんなとんでもない規模の大企業の社長、務まる人はこの世にいるのだろうか……。
しばしばこんな夢想をする。フリーランスになると、嫌な人との仕事はその気になれば断れるし、毎日顔を合わせなくてすむ。非常に楽でメリットだと思う。代わりに深く付き合っていかなければならなくなるのは自分。自分だからと言って思い通りになるわけではない。社長待遇だと聞き悠々と座った椅子は、じっさい窓際に置かれていたりする。
これで問題は解決だ! と思ったとき、元からあった別の問題がひょっこり顔を出すのである。
November 29, 2017
立場を変える学び 佐々木典士
車に乗るようになって、いろいろわかったことがある。
まずは、車はとっても死角が多いということ。後方や左右の確認をするミラーを見るのは適時であり、まわりの360度を常に把握しているわけではないということ。
Twitterの有名な写真。
https://twitter.com/fukaban/status/90...
東京では自転車通勤していたけど、「相手も常に自分を把握してくれているだろう」と思い込みのもと、車に近づきすぎたりしていたと思う。今ならば「ここらへんは見づらいはず」と思うところには近づかない。
そして暗くなってライトをつけないのは自殺行為だとも思うようになり、ライトも気づいてもらいやすいなるべく明るめのものがいいと思うようになった。歩行者としての意識も変わり、車の特性を意識しながら歩いている。
街には看板がたくさんあって、ただやかましいと思っていたが、車に乗ってみればなるほど、看板というものは、早いスピードで動く物体に乗りつつ、しかも両手が離せない状態で、目的のものが遠くからでも見つけられるように設置されているのだとわかった。(それでもうるさい看板は好きではない)
ライターとして活動するようになって、いろんな編集者の方と仕事をするようになった。大きな会社や、ブランド力のある媒体の編集者が気持ち良い仕事をするかといえば、必ずしもそうではない。もちろん小さいからといって丁寧なわけでもない。
今、とても丁寧な仕事のされ方をする編集者と仕事をさせて頂いている。ライターの立場から見て嬉しい配慮がある。依頼も、普段のやり取りも、原稿に対する感想も丁寧。内容は自由にさせてもらいつつも、手を抜かずに向き合ってくださっている。
確かに、ライターが媒体のブランドや大きさで、仕事を判断することもあると思う。しかしライターのモチベーションはそれとは全然違うところでも生まれてくることもわかった。手を抜かず、労力をかけてくれる人には、この人のためにもこちらも相応のものを提供しようと思える。
自分の編集者時代を思い出して、反省することしきりだ。しかし、ライターとしての立場を経験したから、次に編集者として仕事をするときはもっとうまくやれると思う。
ちきりんさんは、採用において「リーダー経験」が求められるのは、その人のリーダーシップに期待されているわけではなく、リーダーがどうやったら動きやすいか、困らないかがわかっているから、リーダーの元でチームメンバーとして働いたときに全体のパフォーマンスが上がるからだということを言っている。
下記は、ちきりんさんが例で上げている忘年会の例。頷くことしきり。
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歩行者や自転車に乗る人は車にも乗れ。編集者はライターとしても活動しろ。
と言いたいのではない。たとえば、お前もいっぺん家族持てや、と言われても困ってしまう。
違う立場を経験すると、今いる立場がもっとうまくできるようになる。世界がさらに立体化されて見えてくる。
それは自分とは違う立場が実感としてわかるから。そして実感としてはわからなくても、想像を働かせることはいくらでもできる。
November 28, 2017
成長はモチベーションにならない 佐々木典士
成長の実感はたまにしかやってこないので、それを継続のモチベーションにするのは難しいと思う。
たとえば、ヨガ。「体が柔らかくなった!」と実感できるのはまれで、それが感じられたとしても「今日はいつもより足首がまわるかな」など非常~に地味にやってくる。そして続けていないと体は固くなり、無慈悲さも感じたりする。
英語もそう。ある日「聞けるかも」「なんかわかるかも」というときがやってきたりするが、成長は階段上になっていて、大抵は長い長い踊り場にいるだけ。
成長は右肩上がりの直線ではなく、下がって上がっての繰り返しで、不細工なガタガタの線を描く。成長をモチベーションにしていると、そんな風に後退したときにやめたくなってしまう。
継続するためには、モチベーションは成長ではなく、行為自体に見つけ出すことが必要だ。そしてそれでも今日も続けられた、という自己肯定感を報酬とすることだ。
山頂に登り自分の出発点を確かめると「こんなに登ってきたんだな」と思えたりするが、それとは違って、最初の自分の状態なんて忘れるほど時間がかかる。だが忘れているだけで、確かに今日も登っている。
成長はモチベーションにならない。それは雲行きの怪しい会社のボーナスのようなもの。
もらえたらラッキーぐらいに思っておくのがいい。
November 27, 2017
欠けているからつながれる 佐々木典士
いつもお世話になっている安曇野のシャロム・ヒュッテ&シャンティクティの臼井健二さんにお話を伺った。
臼井さんはよく「欠けているからつながれる」ということをおっしゃる。
シャロム・ヒュッテ&シャンティクティは、農的な営みと、なるべく必要なものは自分たちで作り調達する暮らしをされているが、それでも完全自給などは目標にされていないそうだ。
ぼくも、山奥で小屋をたて、畑を耕し、鶏を飼い、完全オフグリッドの自給自足生活をよく夢想する。お金を使わずとも、そこですべてがまかなえ、独立した暮らし。
だがそんな風に「自分ひとりでなんでもできる」ということは「誰も必要としない」ということでもある。
たまTSUKIの髙坂勝さんも「自分は英語ができないことによって、英語が得意な人の仕事を作っている」という話をよくされる。
誰も彼もデコボコしており、完全に丸い状態の人はいない。
欠けている部分があるから、できないことがあるから誰かの手助けを受けることができる。
誰かの凸した部分が、自分の凹んでいる部分を補うことで仕事が生まれる。
欠けているものがなければ、そもそも会話だって成立しない。
相手の言うことを全部知っていれば、話なんてする必要はないからだ。
知らないことを教えてもらう。欠けていることでコミュニケーションが発生する。
自分が欠けていると意識しすぎると、完全に球体に埋めてくれるようなぴったりの相手を見つけたくなる。しかしそんな相手はどこを探してもいない。
誰もがどこまでいっても欠けている。
だから、欠けていていい。
しかし、欠けていていいということは「そのままの君でいい」ということでは全然ないと思う。凹んでいる部分は埋めようがないかもしれない。埋めたとしても、今度は別の凹みが気になってくる。
「そのままでいい」なんて嘘で、そのままでは自分で自分に飽きてしまう。
誰かに凹みを埋めてもらうだけでなく、誰かの凹みを埋めてあげることに人は喜びを見いだす。
だから自分の凸した部分に磨きをかける。
これはできないけど、これは得意だよ、ということに取り組む。
たとえばぼくは家族を持たないかもしれない。けれどこの身軽さをもってしかできないことを、そうではない人に向けて還元したいといつも思う。そこに自分の仕事が生まれてくる。
欠けていることを恐れない。
欠けているからこそ、そこに引力が発生するのだから。
November 21, 2017
原因はよくわからない 佐々木典士
消費カロリー>摂取カロリーであれば痩せる。
消費カロリー<摂取カロリーであれば太る。
ということがよく言われる。もちろん正しいに違いないのだが、ことはそう単純ではないという気がする。
ジムに行き、筋トレして10km走ると、700kcal以上は消費することになる。それを続けると、体の見た目は変わったところもあるけれど、体重はあまり変らなかった。食もほぼ固定なので、消費した以上に食べているかというとそんなことはなかったと思う。
1日1食に変えた人に、筋肉が落ちることもなく体にも大きな変化はなかったという話を聞いたこともある。
運動していても、食を減らしても、それを補おうと体が栄養の吸収力を高めようとする。結果あまり体は変らない。単純な足し算引き算ではなく、そんな働きもあるのではないかと思う。
しかし最近になって痩せ始めた。
「こんなに走られるんであれば、軽くしたほうが都合がよい」とようやく体が判断してくれたのかもしれない。
ビール酵母の腸への働きを実感するので、それもあるかもしれない。
自力整体を続けて、骨盤まわりの感覚が明らかに変わってきた。それも大きいような気がする。
いろいろなことを始めているのでよくわからない。相乗効果も考えられる。
科学の実験であれば、他の条件を同じにして、要素をひとつずつ変えて原因を突き止めるところなのだろう。
しかし実験体は自分だけ。時間も同じところにとどまらず、同じ条件ではない。寒くなってきて、代謝が変わったせいかもしれない。時間のぶんだけ年をとり、自分も変わる。
遺伝に関する本を読んでいると、身長の高さを決める単一の「身長遺伝子」などは存在せず、わかっているだけでも数百の遺伝子が身長の高さに関わっていると書かれていた。それと同じようなものだと思う。
目に見える結果はひとつでも、それに関係する原因は複雑すぎてよくわからないものだ。
できることといえば、うまくいっているのなら、その状態を続けること。そしてこれだけで結果がでますよ、というものは眉唾だと思ってかかること。
その道に詳しいひとほど、その道が関われる限界を知っているものだと思う。
November 17, 2017
仕事と休みの関係 佐々木典士
最近、twitterで盛り上がっていたこちらの話題。
最終的に病院に来る人が「できていなかった事リスト」
・自分に必要な睡眠時間が取れていない
・おいしいご飯を食べれていない
・風呂等の休息が取れない
・休みの日がない・休めない
これは完全に「仕事出来る」と思う人の特徴のツイートと真逆です。
どうか壊れるまで戦わないでください。
— CyberIguana (@CyberIguana) November 16, 2017
元の「仕事出来る」ネタはこちら。
ここ数日「仕事出来る」と思った人と話して気付いたのは
・自分に必要な睡眠時間を知っている
・おいしいご飯を食べる
・風呂等、休息をとる
・休みの日は休む
という当たり前の事を忙しい時も変わらずやるという事。
忙しくて心身共に弱ってるからこそ「当たり前」を妥協しちゃダメなんだって。
— 文月 詩乃 (@traveling_shino) November 14, 2017
ぼくは、自分が本当に好きなカルチャー誌で働いていたことがあるのだが、とにかくまぁ忙しい仕事だった。
そのときの、なかなかに凄惨な経験から「好きなことであっても、忙しすぎる仕事はその人を幸せにしない」と強く思うようになった。(幸せとは別の、意義や使命のようなものもあると思っているが、それはまた別の場所で)
今は習慣がテーマだ。習慣とは継続してすることである。継続するためには、必要な睡眠や休みを栄養を確保することが何より重要。
結局、結果を出すには淡々とでも継続することが重要で、いっときしか続けられない無理ぐらいでは結果は出ない。「仕事が出来る」人は何より自分の継続性を大事にしているとも言えると思う。
ぼくも上記のような考えから、睡眠時間、食事、運動などをまず自分の24時間から天引きして確保している。仕事は「もう嫌だ」と思うまでやらない、長時間働かない。その代わり毎日仕事をする。
フリーランスのメリットは「自分の時間を自由に決められる」ということだ。こういえば聞こえはいいが「自分の休みは、自分で決めなければならない」ということでもある。
会社員であれば土日などは「この日は休んでいいよ」というお墨付きを与えられているようなものかもしれない(日本はそのお墨付きが少ないことがそもそも問題だが)。
フリーランスでいると、曜日の感覚は薄くなっていき、祝日や連休もありがたいものではなくなってくる。ぼくの仕事は、自分がいちばん興味があることと一致している。ありがたいことだと思っている。しかし、それは仕事もプライベートの境目もなくなるということ。いつ休むかは自分で決めなくてはならない。
依頼された原稿を終え、取材もいくつかこなしたので、昨日は休みにしてお出かけした。
人の少ない平日にお出かけできるというのはフリーランスの大きなメリットだと思う。
紅葉を追いかけて、京都の端、笠置山&笠置寺へ。
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以前、弥勒仏が彫られていたという大きな岩壁。奈良時代あたりに建立されたという歴史ある寺。
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今は表面が崩れて残っていないが、こんな感じだったらしい。
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大きな石が立ち並び、アトラクションみたいで楽しい。
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山の頂上からは、木津川が見える。
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ライトアップもされている「もみじ公園」。見頃に、なんとか間に合ったという感じ。
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やはり、少々マイナーな場所であっても人が少ない場所が好きだなと再認識した。行く場所ではなく、自分が何を感じられるかが重要なのだから。
そして行ってみた後で「自分には休みが必要だったんだな」とわかった。リラックスできてとてもほっとしたし、目が冴えるような感覚もあった。編集者時代と比べれば、締め切りの切迫感もないし、労働時間も減らしている。それでも書くことを仕事にするなら、毎日勉強を続けなければいけない。そんな気持ちは常にある。
この休みが楽しめたのも、自分にとって歯ごたえのある仕事を終えたあとだったからというのもある。ぼくは以前行きたかったキャンプに「自分の仕事に手を付けられていない」という理由で断ったことがある。楽しむ資格なんかないし、行っても気もそぞろで楽しめないと思ってしまったのだった。なかなかにショックだった。
仕事を続けるためには、しっかり休まなければいけないということ。
しっかり仕事もこなしておかなければ、その休みも心から楽しめないということ。
やっぱりたまにはお出かけしなきゃな、と思わされた紅葉の終わりだった。
November 15, 2017
『星の王子さま』と運命買い。 沼畑直樹
床がまた茶色になった。
ここ数週間で妻がせっせと白いペンキをヘラで剥がし、3日ほどで焦げ茶を塗り上げた。
どこかのカフェのような白の世界はシャットダウンされ、再び淡い10ワットの電球が似合う焦げ茶の部屋になった。
白の世界は1年ともたなかった。
落ちた髪の毛が次から次へと発見され、椅子の脚によってどんどん剥がれた白い床。
雑巾で拭いても汚れは拡がるばかりで、やむなく佐々木さんが教えてくれたマキタのクリーナーで掃除をするようになった白い床。
茶色になって、また床を拭くようになった。
白い埃が見えて、拭くと消える。
やはり気持ちいい。
だけども、髪の毛やゴミが白に比べて隠れてしまうので、掃除機の爽快感は消えた。
それでもいい。マキタの「白色家電」CL107FDという奴は、昔所有していたロボット型やサイクロン型といった最新技術系のものよりはるかに気軽で使いやすい。デザインはブサイクなのに、よく働くので輝いてみえる。
最近は人に薦められたものを素直に買うので、ブラインドも佐々木さんが使っていたものにかえ、友人がバードウォッチング協会の長靴がいいと言うと、その日のうちに買いにいった。
全部いい。
自分でスペックを吟味したり、他の商品と比べたりしていないけれど、いい。
「比較しない」というのは、私の中で最近、薬のように効いている言葉。
「比較しないのはいいことだ」というのは誰しもがわかっていることだけども、実際に実行するのはたやすいことではない。
大人は比較をする。他人の芝を眺め、他人のモノや地位をうらやましがる。
だから、他人よりいいモノを探し、高スペックを求める。
水曜日、ある友人がストーブを買ったという話をしてくれた。
彼は非常に吟味好きで、スペック重視の人なんだけれども、今回は運命買いをしたそうだ。
暖め性能は弱く、メンテも必要なのだけど、それも含めて愛すという。
「一目惚れに理由はいらない」と満足そうだった。
おそらく彼は、アマゾンにかっこいい、かつ性能のいいストーブを見つけても、3年後なら見向きもしない。
手放す日はいつか来るけど、それまでは浮気をせず、しっかり愛すだろう。
「大切なことって、目では見えない」から。
「星の王子さま」のこの有名すぎる台詞は、私にとっては最近までよく知らない言葉だった。
知ったのは、たまたま「星の王子さま」の絵本を買ったからだ。絵本用に場面を切り取られたストーリーは難解で、「こんな話だったかな?」と疑問に思い、新訳を買って読んだ。
読んでみると、面白い展開やストーリーというのではなくて、謎かけや問いかけが中心の言葉たちで、哲学的な本だった。
砂漠に不時着した主人公と、別の惑星から来た王子様の会話が中心だ。
私が受け取ったメッセージは、
「自分が手をかけたものが、プライスレス」
目で見れば同じバラの花も、君が育てたバラは特別なんだ。というメッセージ。
「大切なことって、目では見えない」という台詞は、つまり、スペックではないということ。
目で比較するのではなく、出会ったストーリー(直感)を大切に、大事にモノや街、人と付き合うこと。
手がけた分だけ、大切になる。
自分と付き合うものに対して、それが運命だと悟らなければ、自分にとっての「本当にいいもの」にはならない。
作者のサン=テグジュペリは、どうしてドイツに占領されたフランスにいる友人にこの本を捧げたのか。
親友でユダヤ人のレオン・ヴェルトに。
サン=テグジュペリは、レオン・ヴェルトに対して、「俺たちは子どもの心でいよう」と語りかけたのだ。
想像力を大事に、表層だけを求めず、心で人や物事と接することができるのは、子どもたちだけ。
大人たちが失ってしまうもので、その延長に戦争とユダヤ人迫害がある。
彼ら二人は友情を育んだ、唯一無二の親友。それが何より大事なのだと。
大人になると友達ができにくくなる理由も、この本には隠されている。
私も、自分の心で見える大切な人や物を、大事にしていきたいと、焦げ茶色の砂漠の上で思うのだった。
ちなみに、この『星の王子さま』にはいろいろな訳があって、解釈もまちまちで、私は管啓次郎訳の本を読んだ。
絵はサン=テグジュペリが描いた原本のものが掲載されている。
定番は内藤濯訳のものだと思う。
星の王子さま (角川文庫) [image error]
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時差の不思議 佐々木典士
オランダの新聞の取材をSkypeで受けた。
通訳はニューヨークに住んでいる方にお願いした。
オランダのユトレヒト、ニューヨーク、京都の3者間でのSkype。
最初、オランダの回線が遅れたり、途切れたりしていたが
通信環境のいい部屋に移動してからは、気になるほどの遅延もなく取材は無事に終了。
オランダといえば、ワークシェアリングが進んでいたり、安楽死が制度化されていたり、とにかく先進的なイメージのある国。最近では、合理的な農業の輸出が成功していることでたびたび話題になる。そういえば、近くのスーパーでもきれいなオランダ産のミニトマトが売っている。
オランダのある新聞では最近「燃え尽き症候群」が話題になっていたらしく、ワーク・ライフ・バランスが改善されたオランダでもいまだそういう状況にあるのだと知った。育児休暇の日数もまだまだ少ないそう。遠い憧れの国ではすでに理想が体現しているような感覚をもってしまう。当たり前だが、かの国でも問題は尽きていない。
オランダと言えば、ディック・ブルーナの絵のようなカラフルなイメージがあるが、最近ではグレーなどのシンプルなインテリアが流行しているそう。ディック・ブルーナの色はカラフルだけど、とても少ない要素で構成されている。元々質素を指向する文化もあるらしく、アメリカ大統領が来たときに、固く粗末なクッキーでもてなしたというエピソードがオランダには残っているそうで、なんだか茶の文化みたいだなと思った。
ユトレヒトにある、ディック・ブルーナハウス(ミッフィー博物館)はオランダの家族連れと、日本人の観光客がメインの客層らしい。ミッフィーは英語版のときにつけられた名前であり、現地ではナインチェという名前であるというのも初めて知った。ユトレヒトには、ミッフィーの信号機まであるらしい。
海外から取材されると、逆に向こうの状態を聞きたくて仕方なくなる。そうしてしばし、思いを馳せる。
インタビューの開始時間は、3カ国が起きているギリギリの時間に設定した。
日本時間 21:30
ニューヨーク 07:30(時差-14時間)
オランダ 13:30(時差-8時間)
Skypeのカメラに映るこちらの部屋は暗く、ニューヨークは朝の光。
時差があるのはもちろんわかっているけれど、朝と昼と夜を同時に体験するのはとても不思議な感じがした。
この日は3カ国とも11月15日で同日だったけど、時間によっては日をまたぐこともある。11月に入ってからもう年末感があるが、日本は一足早く年が明ける。「ゆく年くる年」でも各国の年明けなんて見た記憶がないけど、それもそのはず、まだ年が明けてない国ばかりなのだった。
同時に生まれたはずの赤ちゃんが、時差によって誕生日が違う場合があるというのもなんとも不思議だ。Skypeで各国の出産を中継していたら、確かに同時に生まれる。でも誕生日は違ったりする。日本で妊娠したお母さんが、ニューヨークで子どもを産んだら誕生日は1日早まったりして……占いの運勢も変わる?
寝ぼけた頭で考えるとわけがわからなくなってくる。人間に都合のよいようにつけられた日付や時間で考えることに、あまりに慣れてしまっているということだろう。不思議な感覚は残ったまま、みな同じ今を確かに生きている。
November 13, 2017
書くことは失敗すること 佐々木典士
アンジェラ・ダックワースの「GRIT」のなかで、ジャーナリストのタナハシ・コーツの言葉が引用されている。
私のすべての作品において、失敗はおそらくもっとも重要な要素です。書くことは、失敗することだからです──何度も何度も、嫌というほど
書くことが大変なのは、紙の上にさらされたおのれの惨めさ、情けなさを直視しなければならないからだ そして寝床にもぐる
翌朝、目が覚めるとあの惨めな情けない原稿を手直しする
惨めで情けない状態から少しはマシになるまで そしてまた寝床にもぐる
翌日ももう少し手直しする 悪くないと思えるまで そしてまた寝床にもぐる
さらにもういちど手直しする それでどうにか人並みになる
そこでもういちどやってみる 運がよければうまくなれるかもしれない
それをやり遂げたら成功したってことなんだ
これが、マッカーサー賞や全米図書賞を受賞した作家の言葉というのが恐れ入る。
この8年前、タナハシ・コーツは無職で、そのあと「タイム」の仕事をしていたが解雇されフリーランスになり、苦しい日々が続き、体重は13キロも増えた。
「自分がどんな作家になりたいか、僕にはちゃんとわかっていました。なのに、どう考えてもそういう作家になれそうになかった。どんなにあがいてもスランプで何もでてこなかったんです」しかし、そんなストレスに苦しみながらも本を書き上げた。
何かを書くということは、自分の書いたものの惨めさと向き合うことであり、それが書くことの苦しみである。心の底から共感するし、ぼくが毎日実感していることだ。
書くことだけでなく、何かを続けるということは失敗し続け、その失敗と付き合っていくということ。失敗し続け、その惨めさに耐えられれば、いつかは「人並みになり、うまくなれるかもしれない」
大事なのは、才能ではなく続けられるかどうかである。
アンジェラ・ダックワース 「GRIT」
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成功した人たち(やり抜いた人たち)は、やり抜く力があった。という同義語反復の面もなくはないし、それをどうやったら伸ばせるかという面に関しては弱い。しかし成功した人たちは、知力や体力に恵まれていた人ではなかったという実証には説得力がある。才能ではなく継続が大事。というぼくのテーマとも通じている。
November 10, 2017
薄れる「所有」感覚 佐々木典士
メルカリでモノを売ったのは2度だけだが、どちらもあっという間に引き取り手が決まった。
配送にしても、作成されたQRコードを郵便局で見せるだけで、送り先の住所を知ることもなく、代金のやり取りも郵便局ではない。なんという便利さ。メルカリが躍進するのもわかる。
最近売ったのは買い替えのリュック。2万円で買ったものが1万5,000円で売れた。
使用頻度も少なくキレイな人気のメーカー。変更点もない最新モデルを買おうとすれば、倍の値段がするので買ってくれた方にとっても、メリットがあったと思う。
このリュックは確か1年半ぐらいは持っていた。こうしてみると「所有していたものを売った」という感覚ではなく「5,000円のレンタル代を払って1年半借りていた」感覚になってくる。
手数料は多少かかるといっても、メルカリは個人間取引に近く、買ったときの値段と売るときの値段は小さくなっていく。(ちなみに「ぼくモノ」も1,000冊ぐらいメルカリで出ていて、これについてはまたどこかで書こう)
軽トラの電気自動車もSNSで引き取り手を見つけた。だいぶお得にしたつもりだが、それでも業者に売るのと比べれば値段が倍違う。買う方、売る方、両方にメリットがある。
これも一定の金額を払って、半年間のレンタカー契約をしていたような感覚だ。この車でペーパードライバーを卒業し、今しかない貴重な過渡期に電気自動車に乗った。買ったのは車ではなく、その勉強代であり、経験だという気がする。
以前なら、10年15万㎞走った車は廃車にすることが多かっただろう。しかし、今はインターネットでマッチングすることによって「あと半年間だけ車に乗る必要がある」「絶対ぶつけるのでとにかく安い車で練習したい!」というニーズを持つ人に届けることができる。
必要なときに手にして、不必要になれば手放すことができる。
モノを自分のところで終わらせるのではなく、次の誰かに手渡せる。
今当たり前にある「所有する」という感覚は、将来だいぶ変わっているのではないだろうか?
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