Fumio Sasaki's Blog, page 19
December 30, 2017
2018年の目標は「なし」 佐々木典士
2018年の目標は「なし」です。
昨年まで毎年のように目標を立ててきましたが、なかなか叶えることはできませんでした。
しかし、2017年にやりたいことはすべて習慣になったのです。
・早寝早起き
・お酒をやめる
・ブログ、日記を書く
・ヨガ、自力整体、瞑想
・図書館&カフェに出勤
・筋トレ、ランニング
・英語を話す
・楽器を弾く
睡眠を必要なだけしっかりとる。食は3食自炊で適度な量。
お酒もたばこもやらない。毎日の運動や体を整えることも欠かさない。
今後病気になっても後悔はないと思います。あれをしておいたほうがよかったとか、しなかったほうがよかったとかいうことが思いつかないからです。病気になったとしても、元々どうしようもなく自分に備わっていたものだと受け入れることができると思います。
仕事も同じです。この生活を続けた先に、自分の才能ができあがる。才能は備わっているものではなく、作るもの。できることはすべてやり、そこで自分の分を知りたいと思います。
目標は強いて言えば、この今を続けること。
習慣になれば、続けているという意識も薄れてくるのですが。
習慣がテーマの本は、5月に出します。
何かしらお役に立てる本になると思うので、楽しみにしていてくださいね。
December 26, 2017
2017年にやったことリスト 佐々木典士
2017年に、初めて体験したことを書き出してみた。
・お正月ダイビング(石垣島)
・原チャリに乗る(久米島)
・サーフィン(江ノ島)
・爬虫類カフェ、小鳥カフェに行く(東京)
・漆喰を塗る(下諏訪 ホシスメバ リノベーション)
・京都に引っ越す
・トイレを作る(箱根エコビレッジ)
・お香を焚く(京都 Lisn)
・絞り染めを体験(愛知 有松)
・床を貼る(大阪 床貼り協会)
・寝袋で寝る
・タイニーハウスに泊まる(ベッタラスタンド)
・軽トラキャンパーに泊まる(たるたる号)
・レンタカーを借りる(愛知)
・ニューヨークで講演する
(UBER、NBA、ミュージカル、映画館、サードウェーブコーヒー、メトロポリタンなど多数)
・連載を始める(「ぼくは死ぬ前に、やりたいことをする! 」「半径5mからの環境学」)
・野草を採って食べる
・軽トラキャンパーワークショップに参加し、DIYを学ぶ
・車を買う(電気自動車、ペーパードライバー卒業)
・ひとりで焚き火をする
・パックラフトで川下り(長野県安曇野)
・野菜を育てて、収獲する
・田植えをする(長野県安曇野)
・ヨガ教室に行く(京都)
・モーターショーに行く(キャンピングカー、東京モーターショー)
・干し野菜をつくり始める
・ぬか漬けをつくり始める
・オートキャンプ場で泊まる(岐阜県郡上)
・鹿と猪を解体する(岐阜県郡上)
・棚をDIYする
・スチールドラムを演奏する(長野県下諏訪)
・クラシックギターを始める
・自力整体を始める
・メルカリで出品する
・車をSNSで売る
・マニュアル車を運転する
・ごみ処理場見学、ごみの開封調査をする
・Skypeで海外取材を受ける
・車を車中泊仕様にDIYする
・ミシンで縫う
今年は結構落ち着いていたかな? と思ったが、書き出してみるといろいろやっている。
なんだかんだと、行った都道府県も20県ほど。今年の最後は初めての車中泊に挑戦する。
毎年これぐらいやりたいことを続けて、いつ死んでもいいと思えるようにしたい。
習慣が身につく前、だらだらしてしまっていた時期に「できたことリスト」を書いていたことがある。
「今日は何にもできなかった……」と後悔するような1日を過ごしていても、書き出してみるとそれなりにちゃんとやっていたりするから、それが支えになってくれる。
何かを片づけたり、メールの返信をしたり、ごみを出したり、必要なものを買ったり。小さなことでも書き出してみる。見返してみると「パイナップルのむきかたを覚えた」とか書いてあった。こんな風に細かく見れば、少しずつ成長したり、挑戦していっているんだと思う。
こういうことができるのも、全部書き残していたり、写真に撮っていたりするから。
記録は、おぼつかない記憶を埋めてくれる。
記録は、不安になる自分を元気づけてくれると思う。
December 23, 2017
「所有」から「利用」へ 佐々木典士
ミシンを買った。
いちばんシンプルなもので11000円。
目的は、車中泊用の断熱&目隠しのシェードを縫うため。
家庭科の授業で使ったかもしれないが、ぜんぜん使い方を覚えていない。
糸を説明書をガン見しながらセットしていく。
糸がからまりまくったり、ヘタクソすぎたところから段々コツがわかってくる。
冬、夜なべをして縫い物をするというのはいいものだ。
このミシンは、もうひとつふたつ仕事をしてもらったら手放そうと思っている。
箱付き、保証書付きの美品。メルカリで売れば、おそらく8000円ぐらいで売れるのではないだろうか。
そうすると、差額の3000円で今回買ったのは、もはやミシンではないという気がする。ミシンの「レンタル料」を払ったのであり、ミシンを使えるようになるという「スキル獲得」に3000円払ったのではないだろうか。
所有から共有へ。
所有から利用へ。
買ったときの値段と、売ったときの値段が小さいのが個人間売買のメリットだが、値段は自分で付けられるので、当然安くすることもできる。
すごい美品だけど、ミシンがとっても楽しかったから5000円でいいよ、3000円でもいいからこの楽しさを体験してほしいよ。とも思う。社会へ対してドネーションをするような気持ち。安く買った人に得してもらって「掘り出し物を見つけましたね!」とこちらも嬉しいような気持ちも生まれる。差額で買うのは、その嬉しい気持ちかもしれない。
最近、ぼくが「持っているモノが多いとか、少ないとか一概に言えないんじゃないの?」と思っているというのは、こういうところから来ている。クローゼットには常に10着しかないが、1シーズンで30着メルカリで回している人はモノが多いのか、少ないのか? こういうことができるようになったら、一瞬だけを切り取ってモノが多いとか少ないとか言うことにあまり意味はないのではないかと。
先日環境の話で書いたように、輸送にもエネルギーは当然かかっているので、そこにお金を払いさえすればいいという問題ではないし、モノをあまりにも多くぐるぐる回すのはぼくは反対だ。しかし、所有の形態はもう変わりつつある。
ミシンを一週間で手放したとして、ぼくはそれを持っていたのだろうか?
誰かからお借りして、返しただけだろうか?
稼いだお金も集めたモノも天国へは持っていけない。
人がこの世を去るとき、すべてのモノは次へと手渡される。
モノもこの身も、浮世でほんのひとときお借りしているだけ。
そんなことも、ふわふわと考える。
買ったのはこちらのミシン。機能も見た目もシンプル&ミニマル。
ミシンも瞑想のようだと思ったし、手作りは楽しい。
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December 21, 2017
新連載「半径5mからの環境学」をはじめます 佐々木典士
マクロビオティックで有名な正食協会さんが発行されている月刊誌「むすび」にて環境についての連載をはじめることになりました。
「むすび」さんは歴史ある雑誌で、2018年1月号で通算700号。名前を変えながらも60年も続いている雑誌ということで身が引き締まります。尊敬している、猟師の畠山千春さんも連載を担当されています。
連載のタイトルは「半径5mからの環境学」
第一回めの冒頭を引用します。
ミニマリストとして少ないモノで生活していると、自分が使っているモノがどこから来て、どこへ行くのかより意識するようになり環境にも関心を持つようになりました。環境のために、まず身の回りのことから何ができるのか? 初心者のぼくがさまざまな専門家に話を伺っていく連載がはじまります。
モノを買うということは、そのモノを生産するために使われる資源とエネルギー、流通や輸送に使われるエネルギー、廃棄するときにもかかるエネルギーを消費するということでもあります。相変わらず買い物はしていますが、以前より確実に量は減っていると思います。
環境の先生にこんな話を聞きました。
「石油も石炭も枯渇はしない」
上限がある資源がなぜ枯渇しないかといえば、それは最終的にはおそろしく貴重で高価なものになっていくからです。量が少なくなれば、最終的には金やダイヤモンドと同じ希少性が出てきて、今使われているような使い方はできなくなっていく。使うには貴重すぎるから、最終的にはある程度保存され、枯渇はしない。
海に沈んだ後の世界を描いた映画「ウォーターワールド」では、希少品となった紙や土がお金の代わりを果たしますが、それと同じようなものです。
逆に言えば、将来世代にとっての金やダイヤモンドになる可能性のあるものを今は湯水のように使っているということでもあります。
そんなことを考えると、自分が使う資源やエネルギーもできるだけ減らしていきたいと思いました。今実践しているのは
・買い物は精査して、余計なものは買わない。
・手放すものは捨てるのではなく、売ったりあげたりして次へ手渡す。
・エコバッグを使ったり、余計な包装は断りごみを減らす。調理くずは自然に還す。
・配送料はただでも、エネルギーは無限ではないので、オンラインショッピングは可能なかぎりまとめて注文する。
・フードマイレージやヴァーチャルウォーターを考え、なるべく地元で作られた食品を買う。
・洗剤はできるだけ使わず、湯シャンや食器もお湯洗いする。
・お風呂は可能な限りジムのお風呂を使う
と、一般的にできそうなことは大体やっているつもりなのですがもっと踏み込んで考えたり、実践したい。
ミニマリストを志し、家電を手放してから電気代は大きく減りました。
節電、節水は心掛けていますが、稲垣えみ子さんやアズマカナコさんのようにもっと根源的に節電を実践されている方はたくさんいます。
自給に近い農的な暮らしに憧れますが、本を読んだり文章を書く時間も優先したい。
車や電車や飛行機に乗って、旅をすることも大きな楽しみになってしまいました。
環境のことを考えると、振り返ざるをえないのは我が身の至らなさです。
CO2やエネルギーの計算、核廃棄物の問題など、ぼくの手には負えない領域が環境問題にはたくさんあります。また自分のすべてをそこに捧げたいという気持ちでもありません。ですが、自分にも何かしらできることをしたい。
半径5メートルの身の回りから何ができるか。
どうすれば人は環境へと意識が向かうのか。
そんなことを堅苦しくなく、考え実践できる連載にしたいと思っています。
むすびさんは通信販売のみなので、発売から一定の時期が経てば、ブログでも連載の内容は報告したいと思います。
あるとき、また別の先生からおもしろい話を聞きました。
「人間はまだ種とは呼べない」
なぜなら個体数が安定していないからだそうです。環境の制限のなかで暮らせる個体数が決まってはじめて種になる。
今消費している資源の量を、持続可能な形で生産するのに必要な面積のことを、エコロジカル・フットプリントといいます。
WWFが報告しているこの数字では、すべての人が日本人と同じように暮らすと2.9個分の地球が必要だそうです。(アメリカ人だと5個。インドは0.6個。世界平均は1.7個)。つまり今は、地球の余剰分で生活しているのではなく、元金に手を付けてしまっているということです。
いつか人間が生きることが地球1個におさまり、安心して暮らせるように。
December 15, 2017
瞑想と「ただ生きる」こと 佐々木典士
瞑想をしているときは、単に呼吸だけに集中をする。鼻の入り口で空気を吸い込むところから、喉の粘膜を通るさまを感じ、肺に入りお腹の膨らむ様子を見つめる。今後はそれが反対の順で体から外に出ていく。
考えはあちこちに飛んでいってしまうが、それを何度でも呼吸へと引き戻してくる。それを続けていくうちに、脳は普段とは違う動きを見せるようになる。
寝ているのでもないし、起きているのでもない。何も考えていないわけではないが、それは海中で呼びかけられる声のように鈍く曖昧で、意識の中心で起こっていることではなくなってくる。
瞑想が終わると頭はすっきりとし、目を開けると視力が回復したような、いつもの風景の解像度がアップしたように感じられる。
瞑想をすると、普段の自分が感じていることに敏感になり、集中力も高まると思う。それは瞑想が自分が「何かを考えてしまっている」と思うと、何度もそれを中断して、呼吸に戻す行為だから。自分が何かを考えてしまっていること自体を、第三者的に感じ取ることだからだと思う。
そんな風にさまざまな効果は瞑想に確かにあると思うのだが、そんな効果を目的にして取り組むのは何か違うような気もしてきている。
人として生きるということは、仕事や家事に追われていたり、何か課題や目標があったり、何かしらの「目的」を見据えながら日々行動していることが多い。
「目的」のために生きる。すると何をするにも意味が必要な気がしてくる。瞑想にはこんな効果や意味がある。だからそのためにやる。
今日瞑想をしていると、心臓の鼓動を感じ、意識せずとも続いている呼吸を感じ取った。呼吸で取り入れた酸素が、体中に染み込んでいく様を想像する。
熱くも寒くくもない。お腹が減ってもいない。
目的と目的の中間で、ただ生きている。
本当は、こんな瞬間はたくさんあるはずだ。
動物が目的のためでなく、ただ生きているように。
就学前の児童が自分の感覚を頼りに、ただ生きているように。
もう一度こんな体験をしたい。そう思ってただ生きていることを感じる「ために」瞑想をするのなら、そこでまた不埒な目的が生まれてしまう。
ただ生きることは難しいことなのだろうか、簡単なことなのだろうか? 今のぼくにできるのは、その片鱗にほんの一瞬触れることのようだ。
小池龍之介『「自分」を浄化する坐禅入門』
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瞑想の方法を聞かれたときにおすすめしているのが
小池さんの月読寺で、座禅セッションを受けること。
本のバージョンがこちらだが、気になっている方には体験を勧めます。
December 11, 2017
稲垣えみ子「寂しい生活」魂レビュー 佐々木典士
ミニマリストとは、自分に必要なものがわかっている人。
大事なもののために、減らしている人。
「ぼくモノ」に書いたこの考えは、今もあまり変わっていない。
必要なものを見極め、そうでないものは削ぎ落としていく。
モノも情報も多すぎる今「減らす」ということはますます重要性が高まっていくと思う。
しかし、それだけでは見落としてしまうかもしれない大事なことが、この本には書かれている。
娯楽になる家事
稲垣えみ子さんは原発事故がきっかけで、つぎつぎに家電を手放し、今の電気代は150円代。
エアコン、電子レンジ、冷蔵庫など普通の人が使っているものをことごとく使っていない。
洗濯機もないので、服は桶で手洗いする。しかし手洗いは愛用のチノパンがムラになってしまったり、失敗の連続だ。しかし、失敗するからこそ工夫が生まれ、難しいからこそ面白さが生まれる。ここまではよくある話だ。フィルムカメラのほうが味わいがあったり、マニュアル車のほうが運転が楽しかったりする。
稲垣さんがここから辿り着いたのは家事は「娯楽」であるという境地だ。
で、なぜ楽しいのか? それは結局のところ、難しいから。失敗ばかりするから。つまりは面倒くさいからなんですよね。
さまざまな家電の発明は、「面倒くさい」ことを取り除くことだった。
炊飯器を使えばあとはお任せで、火加減の調整で失敗することはない。
毎朝、薪を火にくべるのは時間がかかるから、ボタンひとつでエアコンを入れる。
面倒くさいことを家電が肩代わりしてくれて、家事は楽になる。
もちろんとてもありがたいのだが、そこで生まれてしまう危険性があるのは、家事は面倒くさいもので、できるだけ手間を省いたほうがいいもの、つまり「家事=無駄なもの」という発想である。
家電がこれからどれだけ発達しようとも、そのおかげで家事がどれだけ短時間で済もうとも「家事=無駄なもの」と考えていると、いつまでもその押し付け合い、なすり合いは終わらない。家電のボタンを押した回数がどっちが多いか、夫婦で揉める未来も来るかもしれない。
無駄なもの/役に立つもの
家電を使ったほうがよい、使わないほうがよいという話ではないし、この話の本質ではなくきっかけにすぎない。大事なのは、家電を使わないことからはじまった気づきである。「無駄」を巡る問いは、家事から始まりさらに推し進められていく。
私こそが、自分の時間をずうっと 2つに分けてきたのです。 「無駄な時間」と、「役に立つ時間」と。 「無駄な時間」っていうのは、そう、家事とかそういう「面倒くさいこと」をする時間です。評価もされず、お金にもならず、そういうことをする時間。 「役に立つ時間」っていうのはその逆ですね。つまりはお金になる時間。評価される時間。
さらに言えば究極のところ、私は口ではどんなきれいごとを言っても、世の中には無駄なこととそうじゃないことがあると、分けて考えていたわけです。時間だけじゃない。人間もそう。腹の底では、「世の中には役に立つ人間と、役に立たない人間がいる」と思ってきた。で、私は役に立つ人間でいたい。無駄な人間ではいたくない。ずっとそう思い続けてきた。
無駄な時間があればそれは減らし、役に立つ時間を増やす。
役に立たない人がいれば関わらないようにし、自分は役立つ人間の側にまわれるよう努力する。
世の中には「無駄なもの」と「役に立つ」ものがある。
しかし、その思考を保持している限り、その努力は空しいものになっていく。
そういう考え方そのものこそが結局のところ、自分自身を傷つける。なぜなら老いて死んでいく時、人は誰もが「役に立たない」存在になっていくからです。
誰もが役に立たなくなっていく
今年、お亡くなりになった稲垣さんのお母様は認知症を患っていた。
得意だった料理は、たくさんのレシピや調理器具を管理できなくなり難しくなった。高機能に、複雑になってしまった電子レンジやインターフォンの操作に対応できなくなっていく。服が好きでおしゃれなお母様だったそうだが、山のような洋服からその日着たい服を取り出すこともできなくなっていく。
人が年を取り死に向かっていくということは、その最中で「役に立つ」と身に付けたはずのものができなくなっていくことである。身に付けた語学や、プログラミング言語のような高度のものどころか、食べることのような動物として基本的なことすらできなくなっていく。
集めたモノはお墓にも天国に持っていけないというのはよく聞く話だが、その前の段階でせっかく集めたモノも自分では使えなくなっていく。
「無駄なもの」があり「役に立つ」ものがあるという考えにこだわっていると、役に立たなくなっていく自分に我慢ができなくなるだろう。人生のいっとき、どれだけ強者になろうとも、人は弱者になって死んでいく。誰もが死を、役に立たなくなっていくことを避けられない。
だからね、私はもう家事を差別しない。いやもう決して。しゃがみこんで洗濯物をゴシゴシしている時間を無駄な時間だとは絶対に思わない。 それはもう間違いなく自分のために。この世の中の片隅で糸の切れた凧として生きる自分だって無駄じゃないんだってことを日々確認するために。
必要でないものは減らす。
無駄なもの、役に立たないものは減らす。
それは間違いではないし、まだまだ広まる価値のある考えだと思う。
しかし、無駄を削ぎ落とし無駄でない自分ができあがったとしても、それは無駄によって支えられているかもしれない。役に立たないもののために尽くすことで、自分が役に立てているのかもしれない。そのことは忘れてはいけない。
先日の稲垣さんとの対談で聞いた忘れられないエピソードがある。
稲垣さんのお母様が以前、貝の料理がおいしいといって食べていたので、また作ってあげたそうだ。しかし以前は食べられたのに、貝を自分の歯を使ってこそげとって食べるということができない。稲垣さんもその方法を懸命に教えるのだが、何度やってもできない。
あまりできないので、最後は2人して笑ってしまったそうだ。その笑いは、いったいどこからやって来たのか?
無駄、無駄でない。
役に立つ、役に立たない。
その二分法は、自分が死に向かっていくとき、そのまま自分に突きつけられる。
稲垣えみ子『寂しい生活』
大切なのは手放した後、失われた後にやってきたものを、どう捉えるかにある。
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December 6, 2017
焚き火と寂寥のミニマリズム 沼畑直樹
「家具以外、何も置かれていない部屋」の写真に出会ってから、もう6年以上が経つ。
色づいた枯葉も落ち去った、東欧の田舎道の並木のような寂しさを感じる、その部屋の写真に惹かれたのは、凜と張り詰めたその空気を感じることができたからだ。
私は律儀にその風景を完成させるため、今も部屋をさささと片付けている。
家族暮らしの私にとって、何も置かれていない部屋を目指すのは難しい。少し気がゆるめば、すぐに物はどこかに置かれていく。
ある程度我慢しなくてはいけないときもある。たとえば、妻がずっと箱に入れていて放置していたものを二人で整理していて、いくつかのものを処分しようとしたとき。すぐには処分できないので、少しずつ妻がそれを分類したりするのだが、部屋が散らかるからといって残ったものを片付けてはいけない。片付けてしまえば、またそれは忘れ去られ、部屋の奥の暗闇を住まいとしてしまうからだ。
それでも、凜とした瞬間は訪れる。
今は秋だから、なおさらその瞬間は心地良い。PCの画面に集中しているとわからないが、ふと顔を見上げたとき、何も置かれてない部屋は、寂寥感がある。
部屋の電気を消して、寝室に入る直前に振り返ったとき。
暗闇に佇む「何も置かれていない部屋」の清々しさはいつ見ても素晴らしい。
寂寥。寂しく、凜としている。
10月のキャンプが豪雨のため中止になり、かわりに11月にデイキャンプをした。
神奈川の渓流沿いの山の中、ご飯のあとに、友人が持参した白樺で焚き火をした。
2時すぎには陽が山に落ちて、焚き火の温かさにありがたみを感じつつ、パチパチと鳴る白樺の音と共に、秋の寂しさが心地良い。
思えば、焚き火はいつも夜だった。
夏のデイキャンプでは木炭を燃やすだけで焚き火はしない。
焚き火は夜、明かり代わりに。
だけども、秋や冬のデイキャンプは、昼から焚き火をする。
地面を覆う絵画のような枯葉と、魔女の森のような枯れ木に囲まれた場所で焚き火をする。
今は都会では焚き火もできないから、とても懐かしい感じがして、昔の風景感、昭和感がある。
鼻のたれたチビッこが、焚き火のまわりで走り回り、枯葉でチャンバラごっこをしている都市の中の公園。
小さいころアニメで見たような、夕陽に染まる少年少女たち。
寂しい感じがするのに、情緒に溢れていて、幸せな光景。
昼の焚き火とは、とても豊かで、寂しい。
ミニマリズムとの出会いで見つけた大きな要素は、遮断感。
外界と今ある場所を分かち、感じる寂しさと清々しさ。
寂しいのに情緒を感じ、心が落ち着く。
私は寂寥感が好きだ。
遮断され、寂しく、何もないから。
December 4, 2017
日記は詩、日記はともだち 佐々木典士
ブログを書いていると、日記はおろそかになったりする。
ブログを日記代わりにしている人だっているし、その人にとっては必要なさそうだ。
それでも自分は、やはり日記を書こうと思っている。
それは役割が違うから。
ブログを書くなら、一応読まれることを想定して、構成や文体を整えたりする。
わかりやすさを重視していない日記はもっと荒々しい。
いちおう日付をつけて書くのだが、時系列ではなく自分の「意識の流れ」のままでバラバラ。文章も単語だけだったり、途切れ途切れで完成させてなくてもよしとする。表現の重複も、漢字の変換が間違っていても気にせず、スピード感を重視する。
こうすると、日記というよりもだんだん詩のような感覚に近づいてくる。
人様にお見せするもんじゃないな、という負の感情もそのまま書く。思ったこと、感じたことを隠さずそのままに書く。ヘタクソな官能小説のようになることもある。自分の頭のなかに浮かんできたことを、ひたすら文字に置き換える。親しい友人にも言うのが憚られるような、整理される前のグチャグチャな状態。
しかし、これが書くことの不思議さで、書けば不穏な気持ちがおさまってきたりする。「誰かに話しただけですっきりする」というのはよくあることだと思うが、それと同じような効果があると思う。そうして、日記は大事なともだちだとも思うようになった。日記に肩を貸してもらう、すると少し楽になる。
こんな風に書くこと自体がすでに役に立っているのだが、日記は読み返すのが本当におもしろい。詩のような手がかりしかなくても、自分にはありありと思い出せる。かつての負の感情も、懐かしいできごととして客観的に眺められる。日記を通して、自分のデータを取っているという感覚もある。
人は世界のニュースよりも、自分の裏庭で起こっていることを重要視する。
その意味で自分仕様にカスタマイズされた、自分だけの物語がおもしろくないわけがない。
最後に日記を続けるためのコツを少々。
・ぼくはパソコンで書いている。基本的には、昨日のことを今日の朝書く。キーボードでダダダと打つので、なおさら荒々しくなっているのだと思う。アプリケーションは複雑にせず、何より立ち上げのスピードの速さを重視してMacの標準テキストエディタ。1年分の日記を1つのファイルにしている。
・Google日本語入力は優秀で、「きょう」と書けば変換に「2017/12/05」が出てくるし、「おととい」なら「2017/12/03」も出てくるのでそれを日付の入力に使う。
・日々のすべてを消化しようとしないこと。たとえば旅を日記につけると、一日あたり膨大な量になってしまう。「まだあの旅のことを日記で書いていないから」とブログのように考えていると、いつか止まってしまう。いちばん重要な単語だけでもいいから書いておく。そして、数日あいてしまったとしても最新の出来事を書く。
こうして、日記ももう来年で4年めになる。
表三郎『日記の魔力』
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日記を始める上でとても参考になった本。いきなり素敵なエッセイを書こうとしてはいけない。まずは事実関係を書くこと。エッセイになるような素敵なできごとは毎日ないが、事実関係は毎日起こる。たとえば「グレープフルーツジュースを飲んだ」ということ。
December 3, 2017
自分への手紙 佐々木典士
寒さも本番を迎えて、早起きの難易度は上がったように思えるけど、05:30起きは変わらず続いている。
ビール酵母を夜飲むと、やはり寝起きがよくなっていると感じる。ビール酵母の特徴的な味にはもすっかりなれ、もはやないと物足りなさを感じるほどに。
他にやっていることは、起きる前に暖房がつくようにタイマーをセットすること。
寒すぎると起きるのがつらくなる。かといって、冬の寒さはぴりっとしていいものでもあるので、温めすぎないぐらいに。
起きてすぐするのは、ヨガなので寝る前にヨガマットを出している。
寝起きでマットを出すより、寝る前にマットを出しておいたほうが遙かに楽。
ジムから帰ってくるとプロテインを飲む。
お腹は減っているのだがヘロヘロになっているので、そんな簡単なものさえ作るのが億劫なときもある。
だから、ジムに行く前に作っておいて帰ってきたら飲めるだけにする。
ぼくはやっていないけど、「つくりおき」というのもこの延長なのだろうと思う。
暖房も、ヨガマットも、つくりおきも同じ。
少し踏ん張りが必要な自分のために、先回りして用意してあげる。
それは「今日もやろうね」「おつかれさま」というメッセージでもある。
少し余裕のあるときの自分が、自分に対して手紙を書いているような感覚である。
December 1, 2017
伝わりやすい言葉とは 佐々木典士
海外版の本がたくさん出ているので、メールでのやり取りや、読者からの質問も英語で受けることが多くなってきた。
ぼくの英語力はぜんぜん高くない。しかしわからない単語が出てきてもネットで調べればわかるし、書くときも、これは英語でなんて表現するの? というのは検索すればいくらでも出てくる。
そうして気づいたのが、英語のやり取りをしているときに相手の「意図がわからない」ということがほとんどないということだった。
日本語で質問を受けるようなときは残念ながら頻繁に起こる。「何を聞きたいのだろうか?」「何を求めているのだろうか?」と考え込んでしまうような内容がたくさん送られてくる。
ネイティブ同士でないほうが伝わる?
「ロン毛と坊主のニューヨーク」のロン毛さんと話していたとき、日本人以外の恋人と付き合う方が、実はわかりやすいと言っていたのを思い出す。
お互い日本語ネイティブの恋人同士のほうが、深く理解できそうな気がする。しかし日本人同士だと「言った内容が遠回しすぎてほとんど伝わっていなかった」ということが起こったり、「言わなくてもわかってよ」と阿吽の呼吸を求めたりしてしまう。
お互いに英語ネイティブでなければ、まずもって「100%はわからない」という前提からスタートする。自分の意図をはっきり言葉にしなければ伝わらない。ネイティブでなければ、伝える言葉は婉曲表現ではなく、必然的にシンプルになる。結果として、お互い何を意図しているのか、求めているのかが、わかりやすくなってくる。
つまり、「わかる」「わからない」問題というのはその言語の習熟度とは別のところにもあるということだ。
「空気」という主語
日本語の特有の問題もある。たとえば主語は頻繁に省かれる。日本語で主語を全部書くと、翻訳調(例 だから、俺は奴にこう言ってやったのさ)になったりするし、まだるっこしく感じる。
以前ある記事で読んだのだが、通訳者が「忖度」を英語に訳すときに、主語が誰なのかわからず困ったことがあるそうだ。おそらく主語は「空気」としか言えないようなものになる。
自分の意図を伝えたかったら、主語を大きくしないこと。「みんなやってるよ」「誰でもそう思うよ」ではなく「私はこうしたい」と言うほうが伝わる。
『インベスターZ』を読んでいたら、日本と欧米の採用の面接形式が違うと書かれていた。
日本では最終面接があれば、重鎮がずらっと並んだ形になったりする。
欧米では一人の人が面接をし、採用を決める。複数人で採用を決めるということは、各人の意思を尊重することでもあるし、主語は「空気」になり、責任の所在があいまいになってしまうことでもある。
文化と言語構造は相互関係?
言語として主語が省ける。だから実際の行動の主体もよくわからなくもできる。
おそらく、日本の文化と日本語の構造は相互関係にあると思う。
語順の問題もあると思う。日本語では語順はかなり自由だが、英語なら厳密に決まっている。まず、最初に主語と動詞が来る。「わたしはこうしたい」というのが最初に来る言語は、やはり意図が明確にしやすいと思う。自己主張の強い文化と英語の構造もまた、相互関係にあるのではないか?
日本語を学んでいる人と話をすると、空気を察知しなければ意味がわからない言葉はやはり難しいということだった。たとえばOKなのか not OKなのかわからない大丈夫という言葉。
「大丈夫です」(OK、もちろん問題ないよ)
「……大丈夫です」(嫌だけど、仕方ないですね)
「だいじょう……ぶ」(大丈夫じゃないけど、気にしないでね。でも、そんなけなげな私をたまには気にかけてね)
京都の歴史ある地域では、たとえば工事の音が夜までうるさいと思ったら、
「昨日は、ずいぶんがんばってはったなぁ」
と相手をねぎらう言葉が、忠告になるらしい……。
言葉の意味だけではわからず、相手をしっかり観察しなければ、意図するところがわからない。
わかりやすく伝えるために
日本語より英語のほうが優れている言語だ、というつもりは毛頭ない。
いつでも明快で、論理的なものがいいわけでもない。
たとえば、ぼくは文学に明快さや論理性をぜんぜん求めていないし、どちらかと言えばそれをぶち壊してほしいと思っている。阿吽の呼吸には、わかりづらさもあるが情緒もある。
しかし、会ったこともなく文字だけでコミュニケーションしなければならないときは、もっとわかりやすさを重視してもいいのではないだろうか。日本語でもわかりやすく伝えることはいくらでもできる。
・「お互いに100%はわからない」という前提条件からスタートする。
・自分の状況をきちんと説明し、自分の意図を伝える。
・主語を大きくせず、明確にする。
・婉曲的になりすぎず、シンプルに伝える。
ここまで書いてみて思ったが、会ったこともあって親密な間柄にもこれは必要なことだと思う。
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