Coppe6 reviewsFollowFollowApril 3, 2017友人に勧められて手に取った一冊。 台湾で生まれたのちに、3歳からずっと日本に住む作者がことばとゆっくり刻んできた関係を丁寧に丁寧に綴ったエッセイ。 自分が人生の大半を過ごしてきた国の言葉と「母国語」という関係が結べないこと 自分の母国である台湾の國語、中国語が思うように操れず、どこか切り離された母と子のようにかんじること 大陸から「南方の言葉」と呼ばれながら、國語と不可分に肌に浸透している台湾語 彼女を育てた3つの言葉との揺らぎながら親密な関係、そこから馳せる、国、国籍、越境への思い、すべてが愛おしくなる切実さで記されている 。私は母国語、母語を聞かれた時に迷いなく日本語と答えるだろう。私は両親も親戚も皆日本人だし、国籍も日本だ。一方私は日本語と同じように英語にも育てられてきた。バンコクのインターナショナル・スクールに通っていた私は温さんがちょうど日本語を「国語」として学びはじめたのとほとんど同じタイミングで、ある日突然全てが英語の世界におかれることになった。幸か不幸か英語は「グローバル言語」としての地位をすでに我が物にしており、そして私がそれを学んだのがタイという第三国だったということもあり、私はその時点で国語や国籍について心を悩ますことは温さんほどにはなかったように思う。でも、自分の中に生きている複数の言葉がその地位を変え、その中で自分が育っていく感覚に私はとても強く共感した。一言も英語が話せなかった7歳の私は、気づけば1年半ですでにまわりのいわゆる「ネイティブ」の子どもたちと遜色なく扱うことができるようになっていた。そのタイミングから、日本語は私の中で「お家で話す言葉」になっていく。物事をどんどん吸収していく時期、その知識を運んできてくれるのは英語であり、私の中で広がっていく世界はほとんど英語によって構成されるようになっていった。小学校5年生後半に日本に帰国した私は100点満点の感じのテストで8点しかとれなかった。学校の子たちにはそれからしばらく「8点」と呼ばれ、からかわれたことをいまでも覚えている。帰国したときは、自分の自我を構成するあまりにも多くが英語、そしてタイに根ざしていて、東京のマンションのダイニングテーブルで私は大声をあげて泣いたことを覚えている。一方で、日本語はわたしと日本を最もつよくつなぎとめていたものだったようにも思う。アジアのはずれのタイに居た自分にとって、東京や日本は「憧れ」だった。同時にそれは私の「母語」でもあった。日本語は私を父や母と結ぶ言葉であり、従妹や祖父母と結ぶことばである。温さんが、言葉の境界を軽々しく飛び越えてはいかないように感じていた、とつづっているように、私も家では日本語で話さなくてはいけない気がしていた。英語でしか言葉が浮かばないときに私はそれを恥じたし、どうしても英単語を混ぜなくてはいけないとき、私のあたまの中で探し出せなかったその日本語の単語を母に探してもらい、必ず置き換えてもらっていた。その後、私は中学校を日本ですごし、失われかけていた母国語の地位を日本語は驚くほどの速さでとりもどしていった。高校になると私はオーストラリアに引っ越す。父の赴任の話をきいたとき、私はタイから日本に帰国した時点での日本語と英語の地位がもう完全に逆転していることに気づいた。私の精神世界は日本語がそのほとんどを占めていて、かつて主だった英語は隅に追いやられていた。家庭の言語も日本語だったわたしにとっては、自分が拾い上げてあげなければ、その灯火はいつか消えてしまうように感じられた。そして、今度は自分の失われた「国語」を再び取り戻すために私はシドニーに行く。その時の感覚が中国語を学ぶときの温さんの感覚にとても似ている。かつて自分の中で絶対的な中心を占めていた英語が気づけば小学生のレベルで足踏みをしていた。私が飛び込んだのは高校である。発音ばかりいいものの、言語的な世界は様変わりしていた。九九をおぼえたり、物語文を読んでいたはずのかつての英語世界はそこにはなく、シェイクスピアと物理・化学が待ち受けていた。しかも、英語に対してタイが第三国であったのに対して、オーストラリアは英語を「所有」していた。私は、圧倒的なよそ者として、自分の稚拙な英語をひっさげていくことになる。そこからの三年間はまさに温さんが中国語をとりもどしていったように、自分の「失われた国語」を取り戻すような時間だった。英語が下手にできるからこそ、私はとても英語に神経質になった。なぜならそれは「間違えてもいい外国語」だと割り切れないから。私を育て、自分のコトバだと思ってきた言語に対して、稚拙さを露呈することは許されなかった。英語を自分の言葉のように操ることが私を私たるものにし、私の流浪性を可視化させ、日本と日本語に対する揺らぐ関係を説明するものだったから。「英語がうまいね」といわれることは褒め言葉ではなく、自分の自尊心を羞恥で燃やし、失意に落とす一言だった。完璧であることしか、自分に大して許さない英語とわたしの関係はこのころから少し緊張感のある関係だったように思う。その後、私は再び大学で日本に帰る。グローバル化が叫ばれる今だ。よく聞かれる「なんでそのまま海外の大学に行かなかったの?」。しかし、私の中で日本に帰ることはあまり迷う余地がなかった気がする。それはこのまま大学教育も英語でうけていたなら、今度は私の日本語が自分の精神世界で中学生のままに置き去りにされてしまうことをわかっていたから。英語という「国語」を一生懸命取り戻していた間私の日本語はまたすべり落ちるぎりぎりのところに居たように思う。英語がそうであったように、日本語についても私は完璧でなければ自分自身が肯定できないとおもってきた。どちらの言語も不自由なく操れることで私ははじめて認められる存在であると。日本語ができることで、私の英語が時に滑らかにつむがれなくことは説明されるし、私が英語ができることで私の日本語が時折不自然なことは正当化される。常にそう感じてきた。そうでなければ、自分はどこにいてもただの半人前だと。随分前から、私は単一の言語では完全に自分の精神世界を表現できなくなっていた。温さんのママ語がそうであるように、温さんのなかで「わたし」という一人称が既に「日本語のわたし」であるように。完全には鏡映しにはならない二つの言語を使う中で、どちらかに自分の言語を限定しなければいけないことは、それだけで制約であった。でも、高校で日本語は決して英語のなかに織り交ぜてはいけないものであったし、日本語の中に英語を混ぜなければいけない自体は恥ずべきことだった。幸い、大学以降そんな複数の言葉がうずまく世界を共有する仲間をみつけ、また書いて自己表現するということを覚え、一つの言語で自分のすべからく表現しなくてはいけない、という呪縛からは解放された。日本語も英語も完璧でなくてはいけないという、自分で自分に課した足枷からも少しずつ解かれつつあるように思う。複数の言語が一つの旋律として奏でられるそのこと自体を豊かであると、かみ締めることを思い出させてくれたエッセイである。Quotes"―どうしてママは、ふつうのお母さんみたいに、ちゃんと日本語で喋らないんだろう?たぶん中学生だったと思う。いろいろなことが積み重なって、たまらなくなったわたしは、こらえきれず、思いのたけを母にむかってぶつけたことがあった。その時のことを今でもよく覚えている。母はしんと黙り込んだ。そしてーごめんね、ママ、ふつうじゃない。ニホンゴが震えていた。""道端ですれ違ったわたしを、たいていのひとは日本人だと思うはずだ。わたしの喋る日本語を耳に挟んでも、そう思うだろう。わたしから打ち明けなければ、わたしが日本人ではないとは、想像もしないはずだ。しかし、法の上ではわたしはまぎれもなくこの国の「外国人」でなのである・・・それはわたしにとっては、自分が実は運転ができる、ということと同じくらい、どこかこっけいで奇妙な事実なのだ。法の上、というのを、紙の上、と言い換えてもいい。ペーパードライバーならぬ、ペーパーガイジン―娘は、日本人ですよ。・・・・・・それが父の実感なのだろう。しかしわたし自身は、父ほどには堂々と自分について断定できない。わたしは日本人です、と言おうとすると嘘をついているような感覚に見舞われる。""台湾の歴史や政治状況について素人努めていた頃、祖母と日本語で話すことをうしろめたく思うようになった。台湾の「国語」が日本語であった過去も中国語である現在も、台湾の人たちの多くが話し続けてきたコトバ―台湾語で祖母と話してみたいと思った。妹の二十歳の誕生日を台北で祝った年なので、わたしは二十四歳。台湾語で祖母と話そう。わたしはひそかに決意する。けれども祖母は、わたしたちの顔を見ると嬉しそうに日本語歓迎してくれた。―よく来たのねぇ、さぁ、おすわりなさい、叔母ちゃんが果物を切るから。たくさん召し上がりなさいね・・・・祖母のなめらかで、たおやかな日本語をおしのけて、台湾語を喋ることがわたしにはとてもできなかった。""わたしは、自分が「国語」の時間に教わったコトバでは、それらを書きあらわすことはできないと思いこんでいた。知らずしらず、自分のコトバに線を引いていたのだ。ここから先は日本語以外、立ち入り禁止、と。私は「国語」としての日本語にとても従順で。そこから零れ落ちるものを雑音としてみなしていた。""二十三歳のある日、突然日記が書けなくなった。十年以上、ほぼ毎日、あたかも「生まれながらの自分の言葉」であるかのように、自由自在に操っていた日本語が、ふと「外国語」のように感じられた。いや、逆だ。何故「外国人」であるはzぅの自分は、すらすらと日本語を書いているのだろう、と思ったのだ。その日を境にわたしは、日本人のふりをしながら、日本語を書くことができなくなった。「書く」ことに限定すれば、それは、その言語は、わたしにとって、たった一つの、自由に操ることが可能な言語である。""外国語だったかもしれない言語と、母国語のような関係を結んでいる。それが、自分の現実だと認識したとき、わたしは、「わたし」という一人称では、掬いきれない数多くのわたしが、自分の内に渦巻いていると感じだした。そして、「わたし」と日本語で書き付けたとたん、わたしはわたしの内の無数のわたしを、単純化し、矮小化してしまうことになるのではないかと危惧した。""わたしも妹も、この国で暮らすためには、資格がいるのだ""自分は日本人ではない、しかし日本語で生きているということについて。"トリン・T・ミンハグロリア・アンサルドゥーア、ノーマ・フィールド、テレサ・ハッキョン・チャ、李良枝
Angela Chang46 reviews10 followersFollowFollowNovember 27, 2018集結網站連載文章而成的散文集,有著這樣的作品常見的問題:某些概念或想法的重覆出現,導致閱讀上的不流暢。這本書是十月時,與來訪的日本落語家聊到台裔日本作家時,他介紹給我認識的(當時我只知道東山彰良),全書的主題很有趣,是關於母語、母國語、以及國語三者間的關係與思考。對於雙親分屬不同國籍,或是成長的國家與雙親國籍不同的孩子,讀來應該更有感觸。
yuki9 reviewsFollowFollowAugust 19, 2024電子図書行きの通勤電車は目を閉じて寝る、それ以外は難しい。だけどこの本が片手にあると、行きと帰りと行きと帰りで、目も心も開いたり閉じたりずっと目まぐるしい。途中からずっと泣きたかった。色んな気持ちをヤドカリみたいにおぶって行ったり(帰ったり)帰ったり(行ったり)ずっと気づかなかったけれど、小さい頃母や祖母を悲しくさせたり可笑しくさせたり戸惑わせたり怒らせたり心配させたりした、わたしのひとつひとつの根底に、日本人っぽくありたい、があったような気がするとこの本は気づかせてくれた。紙の上で戸惑うことはなかったけれど、外国人に見えない外国人のわたしは、ほとんど誰も私を外国人と知らない場所を何個も何個も作ろうとしてた。矛先が私に向かうことはなかったけれど、どこの国でも起こりうることだけれど、同じ国���をもたない人に刃を剥く瞬間を隣で何度もみた。いつもギリギリのところにいる気がした、よく分からないけれど。だからこの本を読んだ時に、境遇は違うところが多いけれど、それでも、何だか知っている響きや知る可能性があった響きに、何度も泣きそうになった。覚えておきたい作家もたくさん教えてくれた。よく分からないけれど、この本を読んで、きっとどんな物語でも、声でも、伝えていけば、水面を覗けば誰かが向こうからのぞいてるんだろうなとおもった。時代も国も超えたときには感動するだろうなと思った。※何度も重複するところもあったけれど、作り上そうなったんだろう。This entire review has been hidden because of spoilers.