Kensuke's Reviews > Kyūyaku Seisho
Kyūyaku Seisho
by Masao Sekine
by Masao Sekine
ユダヤの神様のなんと合理的なことか。そして合理的であるがゆえに、なんと容赦ない強力な神なのだろうか。人は何故、神を信じるべきなのか。敬虔でいて徳を積めば、いいことあるから?神は悪しきをくじき弱きを助けるから?不幸にみまわれた人は悪いことをしたからしょうがないのだろうか。因果応報?自己責任?そうじゃないはずだ。信仰とはいったいなんだろう、人は何故、神を信じるのだろうか。さすがに聖書だけあって、非常に説得力に富んだ物語。主人公は敬虔さと信仰心、そして倫理観、すべてをあわせもったヨブ。彼の姿は理想の、そして究極の人間像に近い。人間の中の人間、それがヨブだ。そんなヨブの身に起こった出来事を通じて、何故を突き詰めていくのがヨブ記だ。
ある日、ヨブは見に覚えのない不幸に見舞われる。すべてを失い、自らの肉も腐り果て、苦しみ、灰の中にただうずくまる日々。彼の友人はいう。悔い改めよ、あなたは罪を犯した。ゆえに神に罰せられているのだ、と。ヨブは言う。見に覚えのない罪を悔い改めることは出来ない。この時点でヨブ自身もまだ、因果応報観に囚われている。ただ、ヨブが他の友人たちと異なるのは、不幸から救われたいがゆえに見に覚えのない罪を形だけでも贖うという偽りを行わなかったことだ。議論を通して、次第にヨブの思索は深まっていく。そして、一つの結論を導き出そうとする。神が間違っているのだ。この結論は、きっとユダヤ教にとって一つの岐路だったはずだ。因果応報で全ての問題が説明できないのは、当時の人々も感じていたはずだ。だからこそ、ヨブ記を作ったのだともいえる。ところが、スーパーマンのような無敵のヒーローとしての神、つまりまったくの過ちを犯さない完全無欠の神では因果応報の例外に説明がつかない。善き人が不幸に見舞われるという事態に説明がつかないのだ。では、スパイダーマンのように弱く完璧でない思い悩むヒーローとしての神、つまり神といえども完全無欠ではないが善なる存在としての神に答えを見出すべきなのだろうか。
この議論にけりをつけるべく、ここで本物の神が現れる。神の出現は、もはや議論の余地を残さない。ヨブの不幸は、罪の報いゆえなのか、どうやって因果応報観を脱するべきなのか、答えをもった唯一の存在が答えを与えるのだ。この瞬間は、もはや悟りに近い。突如として議論の次元が変わり、ヨブとその友人たちの議論は、その土台から覆される。議論の余地などどこにも残らない。天地創造を行ったのは神である。大地をきずき波を操る、全ては神の意によって行われたのだ。人間も同様に、どのように扱おうとも神の意によるものだ。神のすることなすこと全てに過ちなど存在しないのだ。まさに神の理屈。そこに因果応報などという議論の入り込む余地はない。ヨブはそこに圧倒的に大いなる存在を見出す。良いことあるかもしれないから祈り、信じるという態度から一歩踏み出し、大いなる存在への無条件の信頼、すなわち神への信仰へと至るのだ。
ある日、ヨブは見に覚えのない不幸に見舞われる。すべてを失い、自らの肉も腐り果て、苦しみ、灰の中にただうずくまる日々。彼の友人はいう。悔い改めよ、あなたは罪を犯した。ゆえに神に罰せられているのだ、と。ヨブは言う。見に覚えのない罪を悔い改めることは出来ない。この時点でヨブ自身もまだ、因果応報観に囚われている。ただ、ヨブが他の友人たちと異なるのは、不幸から救われたいがゆえに見に覚えのない罪を形だけでも贖うという偽りを行わなかったことだ。議論を通して、次第にヨブの思索は深まっていく。そして、一つの結論を導き出そうとする。神が間違っているのだ。この結論は、きっとユダヤ教にとって一つの岐路だったはずだ。因果応報で全ての問題が説明できないのは、当時の人々も感じていたはずだ。だからこそ、ヨブ記を作ったのだともいえる。ところが、スーパーマンのような無敵のヒーローとしての神、つまりまったくの過ちを犯さない完全無欠の神では因果応報の例外に説明がつかない。善き人が不幸に見舞われるという事態に説明がつかないのだ。では、スパイダーマンのように弱く完璧でない思い悩むヒーローとしての神、つまり神といえども完全無欠ではないが善なる存在としての神に答えを見出すべきなのだろうか。
この議論にけりをつけるべく、ここで本物の神が現れる。神の出現は、もはや議論の余地を残さない。ヨブの不幸は、罪の報いゆえなのか、どうやって因果応報観を脱するべきなのか、答えをもった唯一の存在が答えを与えるのだ。この瞬間は、もはや悟りに近い。突如として議論の次元が変わり、ヨブとその友人たちの議論は、その土台から覆される。議論の余地などどこにも残らない。天地創造を行ったのは神である。大地をきずき波を操る、全ては神の意によって行われたのだ。人間も同様に、どのように扱おうとも神の意によるものだ。神のすることなすこと全てに過ちなど存在しないのだ。まさに神の理屈。そこに因果応報などという議論の入り込む余地はない。ヨブはそこに圧倒的に大いなる存在を見出す。良いことあるかもしれないから祈り、信じるという態度から一歩踏み出し、大いなる存在への無条件の信頼、すなわち神への信仰へと至るのだ。
Sign into Goodreads to see if any of your friends have read Kyūyaku Seisho.
sign in »

